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幸せとは星が降る夜と眩しい朝が繰り返すようなものじゃなく

彼氏のことは好きだけど彼氏より私のことを幸せにしてくれる人はいると思う、と言った呟きを見て、だからお前はダメなんだよと内心思った。それに対してめっちゃわかると共感を示す人たちもいて、そう思ってる限りお前らが幸せになれることはないよと強めの感情を抱いたりもした。

幸せになりたいと思っているのは自分の方なのに、どうして他者に幸せにしてもらうことを前提にしているのだろうか。自分の人生なのに主導権を他人に握らせてどうするんだ。自分の人生は自分で幸せにしてこそ人生で生きることなのに、それを他人に任せてしまうのはどうなんだろうか。自分自身で幸せにできないから他人に強請るのだとしたら、それはあまりにも我儘だ。私だったら、勝手に押し付けるなと拒んでしまうかもしれない。自己満足の為に他人を巻き込むな、とも思う。好きな人に対して「私のことを幸せにして欲しい」と思うのはおかしな話ではないが、自分が幸せになりたいだけなら他人の存在はそれほど必要ではないのではないだろうか。好きな人に対しては「私がこの人を幸せにしてあげたい」と思うのが本来あるべき愛の姿ではないのだろうか。自分の人生だからどう生きようが勝手だと言われてしまえば終わりだけど、少なくとも言えるのは、他人はあなたの幸せの為に存在しているわけではないということ。






幸せになりたいと思うことは自然だ。幸せになれるかどうかは別としても、幸せになる権利は皆平等に与えられている。その定義こそ違えど、その志を持つことを否定したり邪魔したりすることは誰にも出来ない。しかしながら、その権利の捉え方や扱い方を間違えてしまっては元も子もない。幸せになる権利は皆平等に与えられているとは言ったが、それはあくまで「幸せになる権利を〝得られるチャンスが〟皆平等に与えられている」に過ぎないのではないかと思う。誰もがそんな簡単に幸せを得られるほど世の中甘くは出来ていないし、神様だってきっとそんなに優しくはないだろう。結局のところ、権利が与えられていたとしても、それを得ようとしなければ意味が無いのだから、だからこそ自分で幸せを掴みにいくことが必要なのだと思う。わかりやすく例えるなら、釣りだろうか。どんなに丈夫な釣り竿と良質な餌が準備されていようとも、目の前にいる人間の釣りたいという意思とそれに伴う行動が起きなければ、釣れるものも釣れない。用意した餌に誘き寄せられた魚が食い付いても、それに本人が気付かなければ得られるのは「餌を食われた(魚を逃した)」という結果だけだ。

同じ時間を生きても幸せな人とそうでない人がいる理由の一つとして、人によって幸せの定義が異なるからというものがある。そもそもの言葉の意味としては「満ち足りていて不満がなく、望ましい状態のこと」だが、生きてるだけで幸せだと言う人もいれば、万人から愛されないと幸せじゃないと言う人もいる。幸せの形も大きさも重さも、全てが人の数だけ異なっているから、幸せとは何かという疑問は何年経とうと疑問のまま変わらないでいるのだと思う。







こういう話をすると、難しい話はわからないだの哲学的なことは嫌いだのと言って考えることをやめる人がいる。答えのない問いについて考えるのは確かに労力が必要だから、思考を放棄してしまいたくなる気持ちはわかる。実際わたしだってこんなことを四六時中考えているわけではない。ただ、そうやって考える機会を与えられたときにちゃんと向き合わない人は好きじゃない。言い訳を並べて目の前のことから逃げようだなんて、最早その人の人間性を疑ってしまうかもしれない。

私が散々あんなことを言ったから、ここまで読んでくれた人の中には、じゃあお前にとっての幸せは何なんだと思ってる人もいるかもしれない。自分でも、文章を綴りながら「じゃあ私の思う幸せって何だろう」と考えてみたけれど、しっくり来る答えは浮かばなかった。いや、本当は自分の中でそれを定めたくないから敢えて答えを探さなかったとも言える。私の思う幸せはこれですと定めてしまうと、それに当てはまらないときは幸せじゃないということを同時に意味してしまうような気がして、それが何だか悲しく思えるから自分の中で幸せの定義を決められないでいる。幸せの定義に当てはまらないからと言って、本当に幸せじゃないかどうかは、その時の私自身にしかわからないから。

だけどそう言って意見を何一つ出さないのは違うし、それこそ逃げになってしまうから、最初に話題として出した恋愛と結び付けて幸せの定義をひとつ考えるとするなら、「好きな人の思う幸せに自分が含まれていること」かもしれない。それが私の思う幸せの定義とすると、私が幸せになるまでにはまだまだ時間が掛かることになってしまうけど、今のところそれ以上は思い浮かばない。もちろん、好きな人が笑っていられることや毎日元気に過ごせることも幸せとは言えるけど、そんな些細なことで自分は幸せですと言えるほど広い器は持ち合わせていない。好きな人が笑っていられることだって、その笑顔の理由が私じゃないなら嫉妬してしまうから。






幸せの定義は人それぞれだからこそ、各々の幸せについて語り合う時間は必要だと思う。あなたにとっての幸せとはなんですかと尋ねたり、自分にとっての幸せはこれなんですと述べたり、そうやって意見を交換して色んな幸せの形に触れながら、自分の思う幸せを見つけていく。幸せになりたいと思うならまずはその定義を定めることから始めなければならないのは、私にとっては少し苦しくもあるけれど、それを避けては幸せは得られない。


あなたにとっての幸せとはなんですか?

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