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ミー・タイムは文字通り「自分の時間」を過ごせばいいってもんじゃない

Netflix映画「ミー・タイム」を観たことで、「ミー・タイム」という考え方を知った。“MeTime"という表記で、「一人の時間」とか「自分の時間」と訳される。

映画の主人公は44歳の専業主夫。劣等感を抱いてしまうこともままあるキャリアウーマンのパートナーや、いろんな役割を担って責任を引き受けすぎている学校や、目が離せない子どもたちから離れ、一人の時間(ミー・タイム)を過ごすことになったがうまく楽しむことができず……。ミー・タイムを張り切って過ごそうと意気込む主人公が張り切りすぎた結果、予想外の展開が次々と起こるコメディ映画だ。

主人公は家族のために自分の時間の全てを使っていて、「自分のため」に動く時間が全くない。一方、独身で、家族とは疎遠、さらにフリーランスで働く私は自分のために使う時間しかない。「24時間365日、全ての選択が自分のため!ミー・タイム最高ゥ〜!いえ〜い!」……と小躍りしたいところであるが、このミー・タイムが過ごせているかと言うと、そう感じることができない。

ミー・タイムは、マイ・タイムじゃない。Meは目的格(「私を〜する」「私に〜する」と表現する際に用いる)の役割を持つ。さらにbe動詞とくっつくと「私だ」と自分自身を指す言葉へと変わる。マイじゃなくて、ミー。「私の時間」じゃなくて、「“私に作用する”・“私である”の時間」がミー・タイムの意味なのだ。

ミー・タイムでは、矢印が自分に向いている。好きなことをしたり、内なる思考を整理したり、将来のことを考えたり。ただただ一人で自分が決定権を持った時間を過ごせていれば、ミー・タイムになっているわけじゃない。

映画を観た数日後、友人と電話した時のこと。最近転職をした彼女は、他県から都内への通勤時間が新しい日課として生まれたそうだ。往復数時間。「大変じゃないですか?」と心配するとともに「でも、行動が制限される電車だからこそ集中して過ごせて羨ましいな」とも思った。実際、「家にいると家族のことでいっぱいだからさ、別のことができる時間になっているよ」と彼女は楽しそうに話してくれた。「映画観たり……いわばミー・タイムだね」と頷く彼女。楽しく会話をした後、電話を切って一人で考えた。「私はいつミー・タイムを過ごせただろうか……」。

持て余すほどのマイ・タイムを抱えているが、それをうまく機能させていない。家族との時間があり、忙しく働いている友人は、想像するに私よりもマイ・タイムが少ないだろうに、ずっと有意義なミー・タイムを創出している。時間はそこに在るものだけど、ミー・タイムは意図的な内省や工夫や集中や意志を必要としていて、“創出”という言葉がとてもしっくりくるのだ。

そんなことを考えて、このnoteを書いている。noteを書いている間は、矢印が自分へ向けられており、いつもよりずっと考えの輪郭がはっきりする。今晩も眠たくなるまでNetflixに時間を溶かすところだったが、友人の快活な声を思い出してパソコンを開いた。44歳の主人公が、長年、誰かのためや何かのために時間を費やしすぎたせいで、「私は何が好きだったのか」「私をわくわくさせたのは何だったのか」分からなくなってしまったように、ミー・タイムがどんどん縮小されていくと、創出の方法を忘れてしまうような気がする。もちろん、献身や配慮は素晴らしい感情だ。でも、それらと同じくらい自愛が生活には必要だから。「ミー・タイム、とっとく?」と、友人をお茶に誘うような気持ちで、自分へと優しく声を掛けていきたい。

ちなみに、映画「ミー・タイム」は個人的にそんな面白くなかったので観なくていいと思う。

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