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NO.3 言葉を扱う

2月。
引き続き自粛生活が続くなか、
家族以外の人と顔を合わせる機会が
少なくなった環境で感じるのは
やはり「言葉」の大切さだった。
そう感じるのは、直接顔を合わせるよりも
画面を通した文字でのやりとりや
テレビ電話といったコミュニケーションの方法が
多くなっているからかもしれない。

もう少し丁寧にいうと、わたしが考えるに
言葉には「選び」と「渡し方」がある。

たしか、自己紹介記事の中でわたしは
「人は言葉でできている」という言葉を
提示したと思う。
人は人との関わりの中で育っていき、
その関わりのなかのコミュニケーションの
手段として必要不可欠となるのが「言葉」。

当たり前のことを言っているように
感じる人もいるだろうが、
果たして世界の中でどのくらいの人が
相手のために言葉を「選び」
その相手を想って言葉を「渡して」いるのだろうか。

言葉の扱い方について、
わたしが初めて意識を持ったのは
幼稚園生の時だったと記憶している。

前後の詳しい状況は覚えていないけれど
母がわたしに対して言った、
「一度言った言葉は二度と取り消せないんだよ」
という言葉が、どういうわけか自分の中に
重たく落ちていった。

まだ20年そこらしか生きていないけれど、
この言葉はわたしの今に至るまでの人生に
大きく影響を与えたものだった。

相手に言葉を「渡す」とき、
相手から言葉を「受け取る」とき
その二度と取り消せない言葉を、
どう正しく扱えばいいのか。
ふとした瞬間に、自分の言葉の扱い方を
振り返って考え込むことも少なくない。
(仲の良い友人とくだけた感じで談笑しているときは
そんなに深く重く思考しているわけではないし、
わりとお笑い担当なところもあるのでめちゃくちゃ
冗談とかもうタイプです)

マイナスなことで言ったら、
他人の発言に対してすごく敏感になったし、
きっと本人が意図していないだろうものまで
感じ取ってしまって勝手にダメージを受けたり
いちいち色んなことを考えすぎて
疲れたりすることもあった。

プラスのことで言えば、
言葉のニュアンスや表現について
知ることが好きになり、
本や音楽、様々な作品に触れるのが
楽しく感じられるようになった。

1番は、自分が言葉について深い感受性を
持てるようになったこと。
敏感すぎるせいでたまに苦しくなるけれど
言葉を丁寧に扱うことができるところは
これからもそんな自分でいたいと
思えるところだった。
(それでも意図せず人のことを傷つけてしまうことも
言葉選びを間違えることもあるのでもっと大切に
選んで渡すことをしなければならないと思う)

そしてわたしが言葉に触れるコンテンツは、
そのほとんどが本と音楽だった。
自分が普段扱っている言葉とは違う表現や
耳や舌に馴染みのない言葉たちは
新鮮でおもしろく、知ることが楽しかった。

今もLINEの自分1人のトークルーム、
「言葉メモ」を作っておいて
初めて知った言葉や表現をストックしている。
別に誰に見せるわけでもないし
発表するわけでもなかったけれど、
せっかくだから今後の記事の中で
そういう言葉たちを記すのもいいかなと
いう気がしてきている。

前回の記事、【10年】を書いているときに
BGMでリピートしていたヨルシカの「春泥棒」も
タイトルだけを聴くといったい何事かと思うけれど、
曲が終わる頃にはメロディーと歌詞になぞられて
情景が浮かんで、「あぁこれは確かに春泥棒だわ」と
なるのがおもしろい。

このアーティストはひとつのアルバムを通して
ある1人の登場人物が見る世界が表現されていたり
同じひとつの風景が2人別の人物の視点から描かれていたり……
さらにはアルバムの購入特典で小説がついてきたりと
世界観や言葉の扱いが丁寧で美しい。

なのでヨルシカが好きという人に会うと、
近い価値観を持っている人かもしれない、と
少し嬉しくなってしまう。
好きな作家や作品が同じ、というも然り。

その人が好きな本や音楽を知ると、
少しだけその人の考え方や大切にしているもの、
世界の捉え方を知ることができたような感覚になる。


2月も、今日を含め残り1週間。
この1週間の間で、わたしは一体
どれほどの量の言葉を扱って、
いくつ相手のために選んだ言葉を
丁寧に渡すことができるだろうか。

なんていうことを考えて記事を書きながら、
「パン好きのミルクティー」という
おいしいものを飲んでいるのでした。

これにて2月の月記は終了!
それでは、また。


BGM:嘘月/ヨルシカ





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