朝井リョウさん「何者」を読んだ22歳女、SNSと裏垢との向き合い方を考える

読了後、十二年も前の作品であることにまず驚いた。文体が私は好きだなって思う。正欲の時もそうだったんだけど、朝井リョウさんの文章って、客観的と言うか、文章がするすると頭の中に入り込んで読みやすい。私にとっては。

以下、読んで感じたことを書き殴っています。ネタバレ注意です。














私にはどこか、物事を他人事かのように俯瞰してしまうクセが、昔からある。

今回で言うと「観察者」の類だろうか。でも観察者で上等だ、とも思う。客観視して優位に立とう。確かに心のどこかで周りを見下して、そんな風に思っていたこともあったと思う。それは認める。でも、私には私の在り方がある。あなたが自分の人生を泥臭く足掻いてしか生きられないように、私は他人を観察するように俯瞰することでしか、これまで生きられなかったし、これからもそれはそう簡単には変わらないと思う。

いいじゃん。自分が自分がって、とことん自分をドラマの主人公にする生き方も、俯瞰して、自分は全体の一部だって思うのも。どっちの生き方だって、そのどちらかだけに囚われなくたって。私は、自分が何者かになろうとするのも、そう在りたいと思うのも、何者にもなれないと思うのも、どちらも自分にとっては真実なんだと思う。


何者、SNSと裏垢について、すごく考えさせられた作品でもある。重複するが、これは十二年前の作品なのだ。十二年前でこれなのか、と思った。だとしたら、現代はもっと激しい気がする。

裏垢を持つ人が増えていると思うし、そうでなくてもSNSで誹謗中傷することや、誰かを卑下して自分をあげること、あたかも自分が絶対正しいと思い込むだとか。Xでよく見る、特定の言動に対してそれを反対する人達が取り締まる「○○警察」(マスク警察、とか最近だと浴衣警察とか見た)、そう言うのがここ数年、確実に増えていると思う。


ここ最近、ずっと考えてしまう。SNSって私、何のためにやっているんだっけ、と。高校生でLINEから始まって、大学生になってTwitter(現X)とインスタ、それからnote。後はThreadsも。

いちばん初め、コロナ禍で同期との繋がりに飢えていたから、そこを満たしたくて始めた。孤独感にも苛まれていたし。

2020年春、緊急事態宣言が出て大学の入学式が消滅した、唯一の代に私はいた笑。そこに置かれた環境は皆一緒、ならば言い訳するんじゃなくて最大限、その時の自分にできることをしようと思ったし、するしかなかったんだと思う。毎日SNSにかじりついた。暇だったし笑。そうしたら少しずつ横のつながりが出来て、何とか保てた。いや正確に言えば病んでいたんだけど、退学するとかそういう思想には至らなかった。

未だにネットニュースで流れてくる、私達の代の学生が、コロナ禍で孤独に追い込まれて病んで退学した、とかそういう類の、薄っぺらい記事。誰の所為でもないことで同情はするけれど、私だってそうだった、と思う。でも私は何とか行動して開拓した、道を拓いた。ちゃんと。

だからそれを一括りにして欲しくない。そんな風に思ってしまう。痛いのかもしれないし、言い過ぎかもしれない、だってそれはもしかしたら、私だったのかもしれないし。


いつからかSNSへの目的意識が消えた。何となく、使うようになった。リアルなつながりのアカウントに流れてくる他人のストーリーを眺めては、輝いていない自分と比べて、惨めだと思った。

でもある時、比べるのをやめた。だって所詮、他人のストーリーなんて、他人の非日常の一部でしかないのだから。全体のうちのほんの一瞬でしかないんだから。それを誇張して全部だと思うなんて、そんな烏滸がましいことはないと。そう思うようにしてからは、惨めだと思うことが減った。純粋に楽しめるようになった。他人のストーリーにいいねしたり、メッセージ送ることも厭わなくなった。他人とつながることが楽しいなって思えるようになった。




とは言え、今でも悩むことはある。だけど悩んでも今の私には、相談できる人がいる。一人はあっても、独りじゃないって思える。それだけで気が楽。





読んでくださってありがとうございます。

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また飲みたいなあ、タリーズのハニーミルクラテ。これ飲みながら書くと、執筆が捗るんです…!