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必要な緊張

すっごく緊張したけど、やってよかったと思う。

今日は卒論の中間報告会があった。日頃からお世話になっている主査と副査の先生に対して、私が現状、卒論でどんな論点で、どんなことを伝えたいと思っているのか。そんなことを口頭でお話しする機会が、大学4年生のうちに2回あって、今日はそれの初回だった。

因みに2回目は、口頭試問って言って、来年の1月にあるもの。4年間の集大成!って感じで、もっと突っ込んだことを聞かれると思う…。先生方から質問をされて、それに受け答えをするんだけれども。

たぶん、今日の比にならないくらいに、緊張するんだろうなあって今から思う…笑。だって、今日の時点で既にド緊張だったし、指と足は震えるし、腹痛は起きるし。

でも何と言うのか、今までみたいな、嫌な緊張感じゃなくて。人生で初めてのことするんだもん、そりゃあ誰だって緊張するよねって感じ。うまく言えないけれど、自分にとって、これは必要な緊張だったのかなって。終わった今、そんなふうに感じている私がいる。

それと今日、私は先生の存在を前にしても、まったく威圧的には感じなかったし、苦しくなることも、(ここから逃げなきゃ死ぬかもしれない)といったことを感じることもなかった。副査の先生は、よかったところはちゃんと「ここよかったよ」と伝えてくださった。むしろ、そのたびに心がぽかぽかするのを感じたくらい。

何より、今日の報告会中に、人格否定をされなかったと、私自身が感じたことは大きい。これについても、今日の中間報告を終えて、思うことがある。

それは、ある言葉について、言葉を発した側はそんなつもりで言っていなくても、受け手の捉え方によって、その言葉の持つ意味や解釈って、変わってくるなってこと。

これは極端かもしれないけれど、例えばある人が「その人の為」を思って、やさしさで言ったのかもしれない言葉が、受け手によっては、鋭利な刃物と受け取られるかもしれないってこと。受け取るだけではなくて、心がずたずたに切り裂かれてしまうことも、あるんじゃないかなって。これまでの経験上、私はそんなふうに思う。

ここは良くないと思う、と言われた時に、例えば問題があるのは「その論文の書き方」であって、「私自身ではない」ということ。今日は随所でそれをすごく感じた。

先生が私に対して、指摘してくださっている、と言う事実がある。でもそれは「私が書いた卒論」に対するそれであって、「私自身に対する人格否定をされているわけではない」ということを今日、なぜだか明確にそう思えた。

もしかしたら、私が昨年、トラウマになったあの出来事も、そういうことだったのかもしれない。私の捉え方に問題があった。私は当時、その一言が「人格否定」であるかのように受け取ってしまった。だけど本当は、「私自身の考え方に対する先生の指摘」だったのかなと。

だけど、それに気付いた今でも、やっぱりその先生のことは怖いと感じるし、何よりも怯えてしまう。今だって、学内で会ったらどうしよう、逃げられるかなって不安になるし、よくないことを考えてしまうくらいには、心の傷は閉じ切っていない。だからもう決めている。これとは今後も、折り合いをつけて生きていくんだと。前にもnoteにそう書いたし。

私は今までずっと、過度な緊張にばかり、苛まれてきた。心の病気であると、医師から診断される程度のそれと。

だからか私の中で「緊張=悪いこと、ネガティブの元凶」だとしか思えなかった。でも、それだけじゃないんだなって、中間報告を無事に終えた今、心からそう思える。

これは私にとって、必要な緊張なんだなと。

貴重な時間をつくってくださった副査の先生、それから今日、主査の先生の授業の時間を拝借したことによって、授業の時間を使わせてもらったから。貴重な時間を提供してくださった先生と、ゼミの友達には、心からの感謝の気持ちでいっぱい。


読んでくださってありがとうございます。

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