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悔し涙

2024年3月9日。お陰様で私は無事に、聖徳大学 社会福祉学科を卒業した。密度の濃い、充実した4年間だった。ここでは、卒業式や証書授与の時に、私の心が動いたことについて、記しておこうと思う。

快晴の日、挙行の運びとなった、卒業式。

学長始め、来賓の大人達からの数々の祝福の言葉が、私の心にいつも以上に、真っ直ぐに響いた。そんでもって、なぜか終始号泣状態だったのは、ここだけの話。

特に"挨拶"と、"感謝の気持ちは相手に照れずに素直に伝える"、と言うお話に、ハッとさせられるものがあった。最近の自分は、それらをおざなりにしていた部分が、もしかしたらあったかもしれない。そんなことを思ったら、自分に腹が立って悔しくて、涙が出てきた。

また来賓の大人達は異口同音に、「社会は厳しい」と言う内容を仰っていた。それを聞いた瞬間、そんなことは言われなくても分かっている当たり前、と思ってしまった。

私って我ながら、可愛げのない人間だと思う。大人達に対して、いつまで経っても、反抗心剥き出しだもんな。そしてそれが「大学」と言う「高等教育機関」を卒業する学生を前にして言う言葉なのか、とも思った。

社会は厳しい?大人は厳しい?

笑わせるなよ。そんなこと、とっくの疾うに分かり切っていることなんだよ。何なら入学前から。

大学生は言われなくても、自主的に行動するのが「当たり前」、疑問があったら自分から進んで質問しに行くのが「当たり前」。

私の代は成人が20歳だったので、20歳になったらより大人の自覚を持って、自分の言動に対して私は自分なりに責任を持って生きてきた。

それなのに、そんな自分にとっての「当たり前」を突きつけられたことで、私は大人達から、馬鹿にされたのかと錯覚した。そんなことは無いのにね。

と言うよりも、自分が勝手にそれを「当たり前」だと思い込んでいる方に問題があるよねと、今は思う。そしてそれが、絶対の正義である、と思い込んでいる私の方が、よっぽど。

そうしたらものすごく悔しくなって、怒りで拳を突き出したくなった。でもそんなことできる筈もないから、感情が全部、涙となって流れ出てきたのが分かった。

特に学長挨拶の時、式中に寝ている人や、全体的に挨拶が出来ていなかったことに対して、「自己管理能力のできない、無能なレベルの低い人間だ」と遠回しに、そう言われたような気分になった。心底悔しかった。大前提として、私は寝ていない。挨拶は若干、周りの空気に流されてしまったかもしれないが。

それに抗いたくて、「私はちゃんとやってます」って、せめて態度で見せつけてやりたくて。そうしたら咄嗟に、眼光を睨みつけてしまった。

と言うか、ほとんどすべての来賓の大人達に対して、そのような態度をとってしまっていたと思う。今思えば反省案件。若気の至りからくる思考回路、なのかなあ。ごめんなさい。可愛げが無くて。

卒業式と言う、独特の厳かさも相まってか、本当に終始、涙が止まらなかった。

式中、友達が資格授与の代表として、壇上で証書を受け取っている姿を見ては、感動と尊敬の眼差しで大泣きした。おめでとう、の気持ちでいっぱいになった。

挙式前、配布された式次第をパラパラと眺めていた時、別の友達数人が、成績優秀者として、名を残している事実を知った。式中、壇上の友達を眺めつつ、名を連ねていた友達に感服しては、再び涙を流した。

その友達は、大学入学してかかわるようになってから、いい意味で「この友達になら負けてもいい」と、私が初めて思えた人だった。(まあそもそも、他者比較や勝負事じゃないんだけどね)

そして、4年間その努力を継続することが出来るって、並大抵の事じゃないと思うから、純粋にすごい。尊敬。

泣き過ぎて、両隣の人に引かれていないか、少々心配なんだけど。まあ今更何を言っても、変わらないのでね笑。

式後、控え教室で、一人ずつ証書が授与された。私のクラスの担任、まさかのコロナ罹患で、今日出席できず…泣。担任はオンラインでの参加となった。コロナに始まってコロナに終わる、なんて縁起でもない諺を編み出しちゃってた笑。

証書授与された瞬間、証書が重かった。証書なんて所詮は紙1枚。そう思っていたのに、ひどく重く感じたのは、私だけでは無いはず。"重み"ってこういう事なんだと、体感で悟った瞬間だった。

卒業ってそんなにすごいことなの?なんて言ったら、きっと睨む人もいるんだと思う。それでも私、よく分からないんだ、正直言うと。だってもともと「大学卒業」、大学生と言う肩書を剥奪されることを目的として入学して、大学生として授業と課題と試験、諸々をこなして。

課程登録取り消したものの、GPAも自分なりに保った。実を言えば、これでも4年間を通して、3より下に、下がったことはない。一時期は資格取得を目指して、努力を重ねる友達と比べては、「自分なんか」と幾度も劣等感に苛まれていたけれど。それでも自分としてはよく頑張ったと、今なら純粋にそう思えるんだ。

やるべきことを4年間、淡々と積み重ねてきただけ。そりゃあやるべきこと全部やったんだから、その見返りとして卒業できるでしょ?本来の目的が達成されるはずだよね?って思ってしまうのは、どうしてなんだろう。

もちろん心身の健康が芳しくなくて…とか、授業に追いつけなくて…とか、人の数だけ事情はあるんだと思う。

いいじゃん。私は卒業できたんだから、それで終わりにしちゃえば。留年が悪いとか、そんなこと言う権利は、私にはないんだから。と言うかべつに、今それを気にする必要は皆無だよね。

かく言う私だって、所謂「病む」経験を在学中、何度かした。でもそのたびに、周りの人が私に手を差し伸べてくれた。そして私は、それを必死に掴み返したんだ。

だから結果として死んでいないし、生きて卒業式を迎え、大学を卒業することができたんだ。卒業前に死んでいると思っていたし、まさかこの私が大学卒業まで生きているなんて、まだ生きているなんて。心底驚いている。


一先ずここまで。

読んでくださってありがとうございます。

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