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自分の趣味を知られたくない話

例えば、本を読んでいるとします。そのときに、家族や友人といった近しい人に「何の本を読んでいるの?」と訊かれることがとても苦手という話です。

子どものころから自覚があるのですが、自分の好きなものを外に発信することがとても苦手です。これにはある程度のラインがあって、好きな系統の服やメイク、芸能人など、そういったものは割とすんなり人に見せることができます。(昔は苦手でした。その話も書きたいです。)好きなアーティストや、映画も答えることができます。
ただ、読んでいる本や好きな詩、作家、エッセイストなどは訊かれたくないです。なので、本を読むときはたいてい一人です。家族の前でも恋人の前でも、読んだことがないです。本の話をしたこともないです。捻くれているかもしれませんが、通勤電車やカフェなど、わたしのことを知らない人の前では抵抗なく読むことができます。

なぜ訊かれたくないのかというと、恥ずかしいからです。もうこの一点のみです。これ以外ないです。ここで誤解しないでいただきたいのは、作品などに対して「知られたら恥ずかしいもの」という感情を抱いているわけではないんですよね。
「普段、人前に出している自分」と「作品」があまりにもかけ離れ過ぎているのではないか、と不安に思ってしまうのです。「お前こういうのが好きだったの?」と意外に思われることが怖い。別に怖がる必要なんてないのですが、どうしても気になる。人前で悩みごとなんかこれっぽちもありません、なんてからから笑っているわたしも、本を読んでぼろぼろ泣いたり、落ち込んだり、物思いにふけるわたしも、どれも本物で、偽っているという意識はないのですが、イメージ?レッテル?ラベリング?環境によってつくられた自分と、内側にいる自分が、あまりにも違う者のような、異物のように思えて仕方がないときがあります。つくられたわたしが、内側のわたしを人に差し出す勇気を持てないというか。そういう諸々を全部ひっくるめてわたし自身を形成しているし、変わらないものだとは思っているのですが。

わたしにとって好んでいる本を教えるということは、自分の内側をさらけ出す行為に近いのかもしれません。自分の思想や考えを構成するものを、その基になったものを、人に見せることにとても恥ずかしさを感じるのだと思います。

わたしは話すことは好きなのですが、上手くありません。順序立てて話せないし、感情が高ぶると支離滅裂になることもあります。そのため、感じたことをきちんと整理したり残したいと思ったときは文章を書きます。だからnoteを続けているところもあります。この文章たちもわたしの内側で感じたものです。好きな本と同じようなものだと思います。だからわたしの親しい人たちにこのnoteのことを絶対に知られたくないんですよね。でも、いろんな人に読んでほしい気持ちもある。好きなものを知られたくないと言いつつ、好きな作家の話や本の話をnoteでする。矛盾だらけですね。人間臭いといえば聞こえはいいですけど、なんか違うような気もするな。ただ、こうやって好きなものや思ったことについてつらつらと書けるこの場をわたしは今とっても大事にしていて、ありがたいなあと思っています。

取り留めのない文章になってしまいました。同じように思う人っているのかなあ、と本を読んでいるときにふと思ったのがこの記事を書いたきっかけです。

ちなみに今は川上未映子さんの「すべて真夜中の恋人たち」を読んでいます。暖かくて瑞々しい文章で、読んでいると、冷たい水を飲んだときみたいなすうっとした冷たさを感じます。まだ冒頭しか読んでいないので、このくらいの感想しか持っていないのですが、気力があったら感想文も書きたいですね。これからも、思ったままに書いていきたいです。