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失敗ってダメなんだよ。ダメなんだけどさ、ダメでいいじゃん。

僕は、「失敗を失敗と思わない」みたいなポジティブが嫌いだし、そういう考えの人は苦手だ。多分しょうもない人間だと思う。もしかしたらしょうもなくない人もいるのかもしれないけど、僕は出会ったことがない。

人間は必要に迫られないと変わることができないと、僕は思う。この世界のものは須く、楽な方向にしか変化しない。「変わった方が楽」という状態になって初めて人は変わる。現状維持は楽だから、人は大抵変われない。

だから、人が変わるためには「現状維持が苦しい」と思う時間が必要だ。「変わった方が楽」なくらい苦しい思いが必要だ。失敗を失敗と思えない、落ち込めない人がなにをどう成長できるというのだろう。

落ち込むというのはエネルギーの塊だ。いっぱい苦めばいい。

もちろん、苦しみを美化したいわけじゃない。苦しまずに生きていられるなら、それほど幸せなことはない。そういう意味で僕はポジティブな人が羨ましい。僕みたいな人間は、苦しんでる人が偉いわけじゃないことを絶対に覚えておかなければいけないと思う。そうでなければ、多分僕は苦しんでいないように見える人たちを見下してしまう。


苦しみという感情は、それ単体では起こり得ない。ある現実が存在して、それを苦しいと思う自分の感性が存在して初めて苦しみを覚える。髪の毛を切られたところで神経が通っていないから痛みを感じることはできないのと同じだ。

僕が苦しみやすいのは、要するにいろんなところに神経が通っているからだと思う。いろんなことを気にすることができる。それは素晴らしいことだ。でも、素晴らしいことばっかりでもない。

大抵そういう人は自己が肥大化している。自分から見た世界における自分の割合が大きくなりすぎている。世界には他人の方が多いのに。

僕は眼を通して世界を見る。でも、僕の視神経は世界に伸びているわけじゃなくて、僕の眼の中で完結している。神経というものは自分の体の中にしか通らない。自分が肥大化すると自分の神経の電気信号に夢中になって世界を正しく見ることができなくなる。それは繊細で敏感だけど、正しいセンサーとは言えない。

自己が肥大化した結果、僕は万能感や自己陶酔みたいな子供っぽさを抱えている。落ち込まない人が反省しないことで子供っぽさを残す一方で、僕は苦しみから逃れるために自分の可能性に縋り、そういう子供っぽさを捨てられずにいる。

僕が変われない時というのは、大抵この万能感や自己陶酔に原因がある。自分の可能性を否定してしまうことに過剰に敏感になって、可能性を信じていられる現状維持の方を楽だと感じる。そして苦しんだまま現状維持を選ぶ。

この時点で心の動きとしてはだいぶ不健康だ。素直に流れていくはずだった川をダムで堰き止めた状態になる。堰き止められた水は、弱いところから順に壊そうとする。

僕の心はこんな時、自己否定を好む。「僕はダメだ」って思う。そういうところから順に壊れていく。その方が楽なんだ。

「僕はダメだ」って思うくせに自分の可能性を信じている。おかしな話だ。今ダメな奴は多分将来もダメなのに。この時すでに僕のセンサーは正しく世界を認識できなくなっている。「クリエイティブなことをしたい」って思うのもただ普通の仕事ができないだけなのに。

苦しみながら現状維持を選ぶ時、その人のセンサーには負荷がかかり、正しく世界を認識できなくなる。その結果、「世界に問題がある」と思うようになったり、センサーを鈍くして無気力になったりする。僕はそういう人にはなりたくないから、そういう人になることもできずにまた現状維持を選ぶ。


ここで、「だから僕みたいな人間はもうどうしようもないんだ」と思うのは横着だと思う。「変わるしかないんだから自分でやる気出して変われよ」って思うのは、馬鹿だと思う。

楽な方にしか行かないんだ。楽にいける方法を考えようぜ。


さっきも言ったように、苦しみは現実と自分の感性がセットになって初めて生まれる感情だ。どちらに問題があるのか考えるのが、まずするべきことだと思う。

この時、自分の感性で考えないことが大切だ。他の人に相談して自分以外の感性で考えてもらったり、本を読んだりした方がいい。そしてその意見をちゃんと噛み砕くこと。計算の規則に従って数学をするように、文法に従って日本語を読むように、あくまで論理的な記号のやり取りとして噛み砕くこと。そうしないと、自分とは違う感性の意見を理解することは難しい。

その結果、もしかすると苦しみを感じている感性の方に問題があると分かるかもしれない。「〇〇コンプレックス」みたいな名前がついているやつは大抵そうだと、勝手に思っている。なぜその感性でいられると楽なのか、考えてみるといい。


でも、大抵の場合は現実に問題がある。僕の場合、うまく行かない現実のせいで苦しむことがほとんどだ。

それをなぜすぐに改善できないのか。「ケチャップ鼻についてるよ」って言われたらすぐに直せるのに。なにが違うんだ。

僕の場合は、さっきも言った通り自分の可能性に縋っている事が原因だ。これは、「自分が自分を好きでいられるために自分に求めるもの」に対して「現在の自分の自己評価が低い」ことが理由だと考えている。自己評価の低さを将来の可能性で補填している。

だから、僕がやるべきことは自分に求めるものを減らすことだ。多分、この解決策が一番健康的だ。僕という人間は多分、みんなと同じか、少しできないくらいの人間なのだ。僕のセンサーが正しく世界を認識できたら、多分これがすぐにわかる。

そして、それはなにも悪いことじゃない。「だからこそ頑張ってすごい人になろう」でいいんだ。「こんな奴がすごい人になったら面白いだろ?」でいいんだ。

それで良いんだ。別にそれで僕の可能性が否定されるわけじゃない。

ここまで結論が出ていて、すぐにそれができないのも僕という人間だ。

だから、さっき万能感や自己陶酔を「子供っぽさ」と表現した。自分に求めることを多くしてしまうこの万能感や自己陶酔は、時間をかけて減らしていくしかないだろう。子供が大人になるには時間が必要だ。



失敗はダメなことだ。

失敗をダメなことだと思わず、落ち込まないのはよくないと思う。ちゃんと落ち込めばいい。

だけど、ダメでいいじゃん。

そう思えないのは、自分に求めるものが多すぎるよ。

ダメだからこそ、次は頑張ろ。

それでいいじゃん。頑張らなくたってどうせ失敗するんだし。


あとは、周りもよく見て、迷惑かけたら謝ろ。

助けてくれたらお礼を言おう。



普段からちゃんと自分と向き合って考えられる人ほど、即座に直せる部分は少ない。少しずつ時間をかけて大きくなろう。子供が成長するように、いっぱい食べて、いっぱい動いて、いっぱい休もう。いっぱい怪我して、いっぱい泣いて、いっぱい学ぼう。大人にはそんな時間も余裕もないかもだけど、僕まだ60年くらいは生きるつもりだし。

いつか、健康的になれたら良いな。

それでは。


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