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講義型ネイティブの授業改善(生徒さんの意識を確認する) 

 十年以上前ですが、講義型授業を少しずつ改めていきました。
 生徒主体ということですね。アクティブラーニングとかそういう言葉が少し出始めたころ。
 個人的には、講義型の限界を感じたことが大きいです。時代の変化ですね。そして、義務教育の方が「教育方法での進化」が早く、そういうことに自分が追い付いていないという気づきがありました。
 とはいえ、教える仕事を予備校で開始し、講義型の授業を突き詰めてきた身としては、なかなかしんどく、迷いと試行錯誤の日々でした。

◆それっぽい形になってくる(なんちゃってアクティブラーニング)
 試行錯誤を繰り返す中で、こんな形になってきました。
 現代文の場合
 ①確認テスト
 ・今日の授業範囲・本文の内容の理解を確認する
 ・センター試験の問4~6のイメージで作問する
 ・「事実の理解」を重視する
 ②論理的思考を習慣づける
 ・「1+1=□」ではなく、「1+□=2」の発想で
 ・トゥールミンモデルを活用する(ワラントを考える)
 ③事実と解釈とを分別する
 ・ここがファシリテーションのポイント
 ④チームで話し合う時は「システム化・構造化」を導く
 ・個々の考えを集めて結びつける
 ・結論の背景にある、さまざまな事実・解釈の複雑な結びつきを知る

◆この頃のゴール
 生徒さんの意識の変化を導くことですね。
 知識は、「与えられるもの」ではなく、「取りに行くもの」ということ。
 つまり、知識は「狩人」の精神で。
 思考は、「より多くの事実に基づき、俯瞰・具体両方の視点で整理する」ということ。つまり、思考は「協働・受容」と「直観・裏付け」とを重視する。
 昨今の「論破」は、「狩り・競争」になっていますが、「思考は狩りでも争いでもない」ということです。狩りに行くのは「知識」。その知識を共有して思考の質を高めるのが「協働」というっことになります。
 で、この頃は、このあたりがゴールになります。
 生徒さんが、ここまでを無意識にできるようなるまで、習熟するまで待つという感じ。事実に基づいた論理的考察と、システム思考とを身に付けるということになります。

◆一元論の壁・優劣思考
 複数の事実・解釈が出てきた時、これを「優劣で順位付ける」「1つの正解に絞る」という思考を持つ生徒さんが出てきます。
 「決定的な原因はどれですか」ですね。
 ええと、そういうことではないんですね。
 日常に中に背景があり、結果の周辺に要因がある。ただし、それは日常の中に埋もれていたり、先入観となって見えなくなったり、無意識になってしまっていたりする。それを、「すべて」可視化する・言語化するということ。
 ですから、それを「一つに絞る」「優劣をつける」というのはあまり意味がない。たとえば、「恋人とうまくいっていないという不安定な精神状況」があって、そのために「課題の提出」が遅れた。課題の提出が遅れたことを「先生に怒られて数日学校を休んだ」とします。この時、「先生が怒ったのがいけない」という結論になってほしくないんですね。同様に「恋人がいけない」「自己責任」という結論も違う。
 重用なのは、事象の理解・解決につながる「論点」を立てること。
 「有効性が高いこと」「本質に近いこと」などが評価の観点になります。
 そんなことを繰り返しながら、「比較=優劣」ではなく、「比較=本質を明確にする」という思考が定着するのを待つというのが当時の感覚でした。
 それができないと、「協働」「創造」にはならんのです。はい。

◆ただし、これはアクティブラーニングでも探究でもない
 こういう設計を「なんちゃってアクティブラーニング」「なんちゃって探究」と自称していました。
 ここまでの流れは、探究に入る前の「トレーニング」と言えるでしょう。
 「事実に基づいて考える」「事実と解釈とを区別する」
 「多くの視点・観点を集めて思考の質を高める」「俯瞰・具体の二刀流」
 で、こういうことは「講義型」では難しいのですね。そもそも「思考のトレーニング」を講義では…というのが当時の私の結論。
 時代と価値観とが変化する中、それにあわせた「トレーニング」をする。そのトレーニングの中で、学びのあり方・学びの場を構築していくというのが私のイメージ。その中では、生徒さんも狩りに行く・協働するというスイッチを操作しないといけない。頭を使わないといけない。
 まず、そういうことで…と割り切り、軌道に乗り始めたのは、夏が近づいてきたころでした。

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