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Tokyo Undergroundよもヤバ話●’70-’80/地下にうごめくロックンロールバンドたち第11話/鳥井賀句『ブラックプールから見る景色/スピード/ペイン/東京ロッカーズ』

※ 盟友・ジョニー・サンダースと共に

話/資料提供◎鳥井賀句
取材・文◎カスヤトシアキ
資料写真◎井出情児
資料写真◎地引雄一
資料写真◎鈴木
資料提供/青木ミホ

 

『40年前、遊びの輪の真只中で……』


  自宅の電話が明らかに盗聴されていた。

  受話器を取ると“カチャン”という音がして、その直後から少しくぐもったような音声になる。多少だが聞き取りにくくなるのだ。

 「おい!この電話おかしいぞ。盗聴されてねぇか?」

 かけてきた友達が怪訝(けげん)そうな声を上げる。確かにそうなのだ。数日前、家の前の電柱に誰かが登り、電線の工事をしていた。僕はてっきりそれは電話工事だと思っていたのだが、それなら事前に何かしらの知らせがあってもよさそうなものだ。

  2階にある僕の部屋からは100メートルほど向こうにある信号までが見渡せる。まぁ、つまりそれだけ外からもウチが丸見えということになるのだが、その信号の手前にスーパーマーケットがあり、中程に見えるうどん屋の軒先に、少し前から黒塗りの乗用車が停車していた。日常の中でそれがどのくらいの頻度で止まっているのか確信は持てないのだが、直近数週間に渡り、気がついたら同じ車が停車していることが多いのだ。

 「トシのことを聞かれたよ。奴ら、お前が中心人物だって思っているぞ」

 仲間の周辺が騒がしくなり始めたのは、ひと月ほど前からだろうか。僕はその真只中にいる確信的な2つのバンドを掛け持ちしていたので、『当局』は僕を中心としてそれらのモノが配布されているという絵を描き、その筋書きを立証したいがために捕まえた仲間たちに、次々と僕の日常を問うていたらしい。電話をくれた友が言うには、「その絵の通りです」と言う2人の証言があれば、逮捕状を請求できるのだとか。それが『当局』から強要されたデタラメの証言でも通るのである。

 「だけど、俺は、トシはやらない、って言っておいたよ」

  “当たり前だろ、やってないんだから”と思いながらも「ありがとね、気をつけるよ」と答えておいた。きっと「その通りです」とか証言すれば、「減刑に関する特典がもらえるよ」とか言われているのだろうから、それに負けない友人たちの情の深さと強さに本心から感謝したのだ。

  加えてその時は裁判の真っ最中でもあった。

  先に捕まった大将が麻を所持していたために、罪そのものは争えないのだが、弁護士から「どうする?」と問われて、「“麻の文化”に対する裁判をしましょう」と提案したのである。日本には古来から麻を用いた文化があり、農作業から神社での儀式や伝統的な様式まで、あやゆるところで麻が文化や生活の中心であったのに、それがすっかりと無いことになっている。麻に対する法律違反は罪だとしても、今一度“麻の文化”を世間に問いましょう、と。

  その訴えに付き合ってくれた担当弁護士は、『当局』ではちょっとした有名人だった。『東アジア反日武装戦線』の担当弁護士だったのである。その影響で僕らの思想も同じだと思われていたのだろうか?

 僕自身は反体制の思想は大事だと思う“日和見主義者”である。

  その時の一連の出来事はそれらの要素が絡み合って、『当局』が僕のことを大物だと勘違いしていたのかも知れない。結果的には何事もなく嵐は去り、電話も通常の状態に戻っていった。

 そんなこともあって、前回の鳥井賀句さんの学生運動話を、懐かしくまとめさせていただいた。高校生の時は、黒ヘルになんとなく愛着した軽い性格の自分なのだが、うちの父親は“真っ赤っか”な教師だったので、マルクスの本は何冊も書棚で息づいていた。東大紛争のテレビ中継も親父のイデオロギー解説付きで観賞したことが、今では良い思い出になっている。

  さて、今回の鳥井賀句さんの話を始めようと思う。

  前回は「内容が音楽話じゃなくて恥ずかしかった」と、ブログを読んだ感想を述べていた賀句さんだったが、僕自身は賀句さんのベースは反抗心にあると思っている。

  大阪から東京に出て来て3年余り、そんな跳ね返りの若者が、大学を中退してから一体どうするのだろうか?

  1973年の西荻窪界隈、及び、吉祥寺から舞台は続く…。

昔からあまり変わらない西荻窪の駅前

 

1990年、ルー・リードと共に

 鳥井賀句/プロフィール
1952年7月京都生まれ。大阪に移り、小学校から高校までを過ごす。高校から学生運動や音楽活動に明け暮れ、一浪で明治大学に入学するが、セクト間の抗争に巻き込まれ中退する。後に高円寺でロック・バー『ブラックプール』を営み、『SPEED』『THE FOOLS』を中心とする数多くのはみ出しロッカーと関わり、自らも『THE PAIN』のヴォーカリストとして活動する。子供の頃からのマニアックな音楽感性を生かすと共に、英語が堪能だったため、その特技を音楽評論や海外ミュージシャンとの交流に活かした。親友にジョニー・サンダースがいたりして、ほんとうはとってもディープな面白話が満載の人生なのに、それを出し惜しみしている節がある。それらの日の目を急かすと、「だから、いま、それを書いてるんだよ!」が口癖である。


『大学を辞めた俺はバイトに明け暮れた』


鳥井賀句/「まずは食っていかなくてはならない」

 大学を辞めてそんな当たり前のことに直面した俺は、ビル掃除のバイトから始めるんだよね。弾き語りのLIVEとかもやっていたから、時間の融通が利くバイトを選んだ結果だ。日雇いの掃除仕事は日によって場所も違うし、日給は5000円。雇ってくれていた事務所には社長の片腕みたいな人がいて、そいつが全てを仕切っていた。「今日はどこ、明日はどこ」って、そいつが電話で現場を指示をしてくる。そいつなんて言ったら悪いかな? 彼は後に東京都知事にまで上り詰めることになる『I』さんで、当時は信州大学の中核派の議長上がりだった。だから、バイト仲間はみんな学生運動上がり。そんな連中が集まっていたんだよね。

 その頃『I』さんは新井薬師のアパートに住んでいて、みんなを近くのサ店に集めて吉本隆明の『共同幻想論』などを持ち出して勉強会を開いていた。そこに俺も時々は顔を出していたんだ。ところが、そのうちに掃除のバイトが、だんだんと鳶職みたいな建設現場での肉体労働に変わっていき、危険な仕事になっていったんだよ。それなのに日給は相変わらずの5000円ポッキリ。誰だっておかしいな? って思うさ。こっちは労災にも入っていないし、話が違うじゃねぇか! って元請けの建設会社に聞いてみたんだよね。そしたら人件費は1万5千円払っているって言うじゃねぇか。事務所が1万もピンハネしていることが判明して、「ふざけんなよ!」って皆で事務所に乗り込んだんだよ。そしたら『I』は昔っから口達者で、逆になんだかんだと言い返してくる。だから俺たち全員で辞めてやったんだ。『I』は元々が全共闘のくせに、自分の立場が資本家の方に回ったらこれかよ! って思ったね。言っていることとやっていることが全く違うじゃねぇか!って、ますます左翼運動に俺は興味をなくしていったんだよね。

メルカリで 『左翼アンティーク』として、新左翼のヘルメットが売っている時代(16,000円〜38,900円)

 『I』とは後になって偶然に遭遇している。もう彼がノンフィクション作家になって、『大宅壮一賞』なんぞを受賞した後で、まさに“時の人”だったころ。『スタジオ・ヴォイス』っていう雑誌があって、そこに『I』は連載を始めていたんだけれど、俺もたまたまショーケン(萩原健一)にインタビューした記事をある号に載せたんだ。そうしたら俺のことを覚えていたらしくて、編集部を通じて連絡してきてさ、「手伝わないか?」って言うんだ、彼の仕事をさ。でも、俺の記憶には『I』の胸ぐらを掴んで「ふざけんなよ!」って迫った残像が残っていて、丁重にお断りした。

1970年代の『スタジオ・ヴォイス』は、残念ながら売り切れのようです

 
俺のその頃の生活は家賃3万円の一間暮らし。毎日バイトして帰って、50円のコロッケ2個とキャベツと“江戸むらさき”でメシ喰って、サントリー・ホワイト飲んで寝るだけのアパート暮らしを地味にしてんだが、ビル掃除のときに知り合った間(はざま)組の現場監督と俺たち直で交渉して、西荻駅前のマンション工事の現場仕事を請け負ったりしたら、なんと、2年間で300万くらい貯まったんだよ。住んでいたのは吉祥寺。ベニア板に囲まれた壁に共同便所の極貧生活だった。

桃屋 江戸むらさき

吉祥寺の歴史と街のなりたち:このまちアーカイブス「吉祥寺」編

 

『バイトで貯めた資金で、ロックバー“ブラックプール”を作る』

 

鳥井賀句/バイト資金300万円でロック・バー『ブラックプール』を作ったんだ。と言っても店の家賃も3万円だったけどね。『ブラックプール』は現在の高円寺『ShowBoat』の裏道に面していた。単純計算すれば、一日4千円稼げばやっていけるって俺は考えた。席はカウンターを入れて13。ウィスキーの水割500円、サントリー・ホワイトのボトルが2000円。そんな安価なメニューでも常に満員だったから、現実には一晩に3万くらいの売り上げがあって、金が貯まっていったんだよね。後々の話だけれど、その金でニューヨークに行くことにしたのさ。

ブラックプールの鳥井賀句/マニアックなレコードが多数あった

 ブラックプールを始めた頃のパンクシーンは、まだ感度の良い奴らだけのものだったから、そんな輩が俺の店に来だしたんだよ。彼らはパンクっていうより、もともとがアンダーグラウンド志向の連中で、その中の1人を挙げれば、例えばラピスなんかはラリーズ(『裸のラリーズ』)をリスペクトしているような趣向だった。『村八分』もね。海外でいえば、『ベルベット・アンダーグラウンド』やルーリードのイメージかな。そこから『東京ロッカーズ』のシーンが生まれてくることになるんだ。

ラピスのいたフリクション/左から、ラピス、チコヒゲ、レック。Photo : 地引雄一


裸のラリーズ Les Rallizes Dénudés

裸のラリーズ / 白い目覚め

MAJIKA~NAHARU


 『東京ロッカーズ』とは、『ジャンプ・ロッカーズ』と言う名称で中央線周辺で活動していた『ミラーズ』、『ミスターカイト』、『スピード』、『フリクション』の 4バンドが元になっているんだ。そこに、『S-KEN』の田中唯士(たなかただし)が声をかけて、日本のグラム・ロックをやっていた『紅蜥蜴(べにとかげ)』改め『リザード』も加えて6バンドにして、全体を『S-KEN』が束ねた和製パンクムーヴメントの総称だったんだ。一つ一つのバンドはアングラだけど、それが6つ集まればムーヴメントになることを狙ったんだろうね。

 田中さんという人は、元はヤマハのポプコン用の曲を書いたり、ヤマハの音楽雑誌に関わったりしていた業界人の一人だった。しかし、76年頃のニューヨークに滞在して、ちょうど沸き起こってきたニューヨーク・パンクに触発されたんだと思う。それで、日本にもパンクのムーヴメントを起こそうとしたんだね。まあ、彼のバンド『S-KEN』は、なんだかエルヴィス・コステロぽかったけどね。『紅蜥蜴』は桂⼩⾦治のテレビ番組にも出たことがあるくらいの、ちょっと別格な存在感があった。

 そんな『東京ロッカーズ』にいた『スピード』の⻘ちゃんやケンゴがブラックプールに来るようになるんだ。

STREET KINGDOM 東京ロッカーズと80'sインディーズシーン PV

リザード TVマジック

s-ken & hot bomboms 「夜空にキスして天国を探せ」(Kiss the Night Sky and Find Heaven)

Mirrors 1979 衝撃X(Shock X) Japanese early Punk New Waveearly

Mr. Kite – Innocent


 

 他にもいろいろな奴が、⾃分たちの演奏したカセット(テープ)なんかを持ち込んできた。後に『フールズ』を作ることになる伊藤耕はドラムのマーチン(高安正文)と『ルアーズ』と言うバンドをやっていて、よく店に遊びに来ていたよ。彼らもカセットをくれたんだけれど、『ザ・フー』とか洋楽ロックのカバーが多かった。だけどその中にオリジナルの曲も入っていて、名曲『無力のかけら』が混じっていたんだ。それを聴いた俺は「オリジナルが良いんだから、もっとオリジナルを作りなよ」って言った覚えがあるよ。

 マッチャン(ツネマツマサトシ)なんか、『浮浪雲』っていうストーンズのコピーバンドをやっていてさ、もろ、ストーンズ⾵なテープを店でかけたりしていたよ。俺はラピスとマッチャンとは仲が良くてね、もともとが同じ歳だったからウマがあった。2 ⼈とも相前後してフリクションのギタリストに参加したけどね。

「無力のかけら」

※ 『フールズ』が初期の『ブルーハーツ』のゲストに呼ばれたのが理解できるような伊藤耕の原点の曲である。

 Friction (フリクション) Live At Electric Lady Land, Nagoya, Japan, 1979-12-15

Death Composition '99 / 恒松正敏&VISIONS


 そのうち、良(川田良)が八丈島から上京してきたんだ。ブラックプールの広告を『ZOO』に出していたから、それを見て覗きに来たんだよ。「パンクロックの店はここ?」みたいにさ。で、例のあの調子で、「俺はジェフベックの全ての曲を完コピしたんだけれど、もうそんなんじゃつまんなくて、いまはストラングラーズに注目している」なんて言っていたのを覚えているよ。散々くっちゃべって飲んでクダ巻いて金払わないでツケにする、ってのが当時からの良のパターン。最後までそれだけは貫いたんじゃないかなぁ(笑)。まだスピードに入るずっと前の話、良とは俺、古かったんだ。

雑誌『ZOO』SUPER HEAD MAGAZINE NO.1 創刊号 1975年7月


1980年創刊。前身となる音楽雑誌『ZOO』時代から「SUPER HEAD MAGAZINE」を名乗り、『SUPER HEAD MAGAZINE ZOO』から『SUPER HEAD MAGAZINE DOLL』へ誌名変更した

The Stranglers - S-KEN Studio Roppongi Tokyo Japan - Death & Night & Blood and Hanging Around – 1979

※ 1979年/S-KEN スタジオで演奏する『ストラングラーズ』

 ある日、鎖を首にジャラジャラ巻いている若い奴が入って来て、「マスターぁ、『ZOO』って雑誌見て来たんですけどぉ」って、見事な栃木弁で挨拶してきたんだ。「歌をぉ、ボーカルをぉ、パンクバンドをやりたくてぇ、来たんですけどぉ、あ、オレ、ジュネっていいますぅ」って、後の『オートモッド』のジュネなんだよな、これが。「メンバーぁ、探してるんすけどぉ、誰かいないすかね?」なんていきなり切り出してきた。そこにカウンターの奥で呑んでいた男が反応するわけ。そう、お察しの通り、それは良しかいないよね。「なに? お前、歌えんの? 俺も今、メンバー探してんだよ、やろうぜ!」なんて、ことになる。「お前、好きなヴォーカルは?」ってさらに押すと、「イギーポップっす」なんてジュネが答えたから、それじゃ! ってんで、そこに居たメンバーで、(俺もリズムギターで入って)『ワーストノイズ』ってバンドを作ってスタジオで練習したわけよ。そうしたら、その少し後に下北沢音楽祭みたいな催しがあって、5番街っていうレコード屋のフロアでやるんだけど、そこに大手のレコード会社のプロデューサーなんかも来るっていうので、応募するわけさ。まぁ、コンテストだよね。ジュネにとっても良にとってもこれが初ステージだったんじゃないかなぁ。でも、そのコンテストのステージは大変なことになるわけだよ。ジュネはイギー・ポップを目指していたからさ、イギー・ポップのカミソリパフォーマンスを真似るわけ。まぁ、その先はご想像にお任せします。

1979年/イギー・ポップと


1989年/イギー・ポップと

AUTO MOD

Iggy Pop - The Passenger (Official Video)


 当時の記憶は曖昧なところもあるんだけど、この『ワーストノイズ』でもう1回くらいLIVEをやったような気がする。だけど、その頃の俺はもう『PAIN(ペイン)』というバンドも始めていたからさ、新たなるシーンに移行していたんだけどね。『PAIN』の話は、後でまとめてするけれど、ギターが『ミスターカイト』にいたモジャで、ドラムが後に川田良と『午前四時』をやるヒロ、ベースはどっかのお坊ちゃん風な奴だった。

『PAIN(ペイン)』Photo :

 
 
 それで、俺たちは『東京ニューウェーブ79』というイベントをやることになる。良はその時はもう『スピード』のメンバーだった。だから、『スピード』、『PAIN』、川上(川上浄)がやっていた『自殺』、カズ(中島一徳)がいた『81/2(ハッカ・ニブンノイチ)』、耕(伊藤耕)のいた『SEX』、そして『BOLSIE』の面子でイベントを行うんだよね。

 川上はブラック・プールのすぐそばのアパートに住んでいてよく店にも来ていたけれど、酔った挙句に煙草に火を付けたマッチを、そのまま机上の徳用マッチの箱に放り込んで炎が立ち上がり、危うく火事になりそうになったりして、かなり無茶苦茶なことをやっていたんだ。周りの奴が言うには、自分のアパートでも火事を起こしたって話だった。

『PAIN(ペイン)』/当時の鳥井賀句は『テレビジョン』とルー・リードとリチャード・ヘルにはまっていた。「文学的な歌詞をサイケデリック・ガレージ・パンク風にやってみたかったんだ」と言う


『自殺』/川上浄、栗原正明(現/Ding-A-Lings)、中島カズ(ex/TEARDROPS)、佐瀬浩平(ex/TEARDROPS)の4人時代。第1期のメンバーだった。Photo : 地引雄一


『8 2/1』/バンドメンバーの泉水敏郎と中嶋一徳らが結成した「WINK」が1978年に改名し、「8 1/2」となった。バンド名の由来はフェデリコ・フェリーニの映画「8 1/2」より

Bolshie '79 UNRELEASED TRACKS

※『BOLSIE』/全員10代の高校生だったという。当時音源を残した10代のバンドとしては日本では最初のバンドではなかろうか。


『スピード』/青木眞一、ケンゴ、井出裕行、ボーイ、川田良のメンバーだった。Photo : 地引雄一
『SEX』/の写真が見当たらなかったので、若き日の伊藤耕と川田良

 そうしたらさ、「そのイベントをLIVE録音させてくれ」ってビクターの某プロデューサーが言ってきたわけ。その人は後にキョンキョン(小泉今日子)のディレクターになった人だよ。「えっ! いいんすかぁ?」って返しになるよね。「うち、無名なバンドばかりですけど」って。なんでだ? っと思って調べてみたら、SONYから『東京ロッカーズ』がライブ・アルバムを発売されることになっているっていう情報が入ったんだ。“それでかぁ!”って合点がいくわけだ。SONYよりも数週間早くビクターは発売しようとしているんだってね。まぁ、断る理由もないからLIVE録音を行うことになる。新宿のLIVE会場に録音機材車が来て、無事に収録された音を、トラックダウンっていうんだけれど、俺たちは音を確かめながら聴くわけだ。そこでだよ、井出情児が撮った(監督/津島秀明)映画『ROCKERS』にもその顛末が収録されているけれど、『スピード』がNGを出すってわけ。訳はよくわかんねぇんだけどさ、「俺たちは参加したくない」って、とにかくケンゴがキッパリと言うんだよ。その頃の俺、『スピード』のマネージャーでもあった。『PAIN』をやりながらソレを半年くらいやっていた時期だったんだよね。

79年1月29日、新宿西口の貸しスタジオ“ライヒ館モレノ”に東京ロッカーズの第二世代たちが集まった。SEX、自殺、PAIN、8と2分の1、BOLSHIEなど。その後の日本のパンク、ニューウェイブをリードしたバンドの歴史的ライヴ盤。ジャケット・デザインは後に『YMO』も手掛ける、羽良多平吉

A1. TVイージー(SEX) A2. 無力のかけら(SEX) A3. ゼロ(自殺) A4. ひとつ(自殺) A5. コンフュージョン(PAIN) A6. リフューズ・ナイト(PAIN) B1. マネキン人形(82/1) B2. 暗い所へ(82/1) B3. シティー・ボーイ(82/1) B4. ロボット・イン・ホスピタル(BOLSIE) B5. クロックワーク・アーツ(BOLSIE) B 6. ノスタルジック・ボーイ(BOLSIE)

TOKYO NEW WAVE 79



井出情児が撮った映画『ROCKERS』Photo : 地引雄一


鳥井賀句/やっと『スピード』のマネージャー話になったな(笑)。

 じゃあ、それをやるきっかけから話そうか。きっかけは青ちゃん。俺が『ZOO』だったか『DOOL』に音楽の記事を書き始めた頃、青ちゃんがブラックプールに遊びにきたんだ。その時俺が、「何てバンドにいたんだよ」って聞いたら、「『村八分』だよ」って言うじゃん。「あっ、『村八分』でしたか、俺、好きでした!」っていきなり敬語になったりして(笑)。そしたら青ちゃんは「冨士夫なんかとは、もうやってないんだよね。今は『スピード』ってバンドをやっているんだ。よかったら見に来いよ」って言う。それで行ってみたんだ。そうしたら『ストゥージズ』みたいでカッコ良いじゃない。曲が完全に『ストゥージズ』なんだよ、コード進行が同じなんだ。その頃の俺はさ、とにかくイギー・ポップが大好きだったから、すっかり気に入っちまったんだよな。

 『スピード』ってさ、ケンゴのヴォーカルも凄いんだけれどバンド自体の演奏力がとにかく迫力あったから、「『東京ロッカーズ』の中で一番良いバンドだと思うよ」なんて青ちゃんに言ったら、「ほんと!?」なんて子供みたいに喜んじゃって、「それならケンゴを紹介するよ」って事になるんだよね。そんな訳でケンゴもブラックプールに来るようになり、「ガクちゃんさ、俺たちのこと宣伝してくんねぇか?」って事になって、それがマネージャーになる始まり。俺が音楽ライターやっていたから、宣伝にちょうどいいとでも思ったんじゃない。たしかその頃、白夜書房から出ていた『BILLY』というサブカル系の雑誌に『スピード』の写真と紹介記事を書いた記憶がある。だけど、今となってはブツ(雑誌)は見つからないなあ(笑)。

 青ちゃんはその後に『スピード』をやめて、『タンブリングス』を始めた時にも、冨士夫を紹介してくれたよ。

『スピード』右端から青木眞一、ケンゴ、井出裕行、ボーイ/ Photo : 鈴木

The Stoogesを追ったドキュメンタリー!映画『ギミー・デンジャー』予告編

The Stooges - Ohio 1970 Live HD


『俺にとっての“村八分”話』

 

鳥井賀句/ここでちょっと『村八分』話をするね。確か初対面の青ちゃんにこんな話をしたと思うんだ。

 予備校生になった俺は、すでに東京の高田馬場に住んでいたんだけれど、高校生の頃、向かいの家に住んでいた同志社大学に通う姉さんと偶然に仲良くなって、レコードを貸し借りするまでの仲になっていた。その頃の俺は『DOORS』に狂っていて、姉さんは『ジェファーソン・エアプレイン』が好きだった。顔もジェファソンのグレース・スリックにちょっと似た美人だったな。

The Doors - Love Me Two Times

Jefferson Airplane -White Rabbit-


 そんなこんなでレコードを交換しているうちに、姉さんが京都の『都落ち』ってバンドのヴォーカルと付き合ったかな?そこら辺は記憶が曖昧なんだけれど、とにかく姉さんはそこら辺のバンドに混じってLIVE で歌ったりもし始めたんだよ。俺は京都までそのイベントを⾒に⾏った。そのイベントに『村⼋分』も出演していたんだよね。俺は当時、予備校生だったからさ、時間はたっぷりとあるじゃん。だから10日間くらいは京都に居たんだ。ロックな店も『ダムハウス』とか、『治外法権』とか幾つかあって、そこいらに『村八分』も来ているって話を聞いたから、試しに行ってみたんだよ。そうしたら『ダムハウス』の奥の席に『村八分』の全員が見事に居たんだよね。チャー坊は卓上に両足を乗せて凄い迫力っていうか、激アツ(圧力)なんだよ。冨士夫もオーラを放っているし、とにかくおっかなくて近づけなかった。店の客たちも“『村八分』がいる”ってざわついているのを俺は黙って見ていた。そんな話を青ちゃんに挨拶がてらしたのを覚えている。

都落ち TV イントロダクション

※『都おち』は『BEATLES』を模倣していて当時人気があった。『キャロル』はハンブルグ時代、『都おち』はスーツを着てからの『BEATLES』。


京都ロックバー/治外法権

 
 その後、『村八分』のLIVEを5回くらい見たけど、まともに最後まで見れたのは2回くらい。あとは途中でやめちまったり、来なかったりしたんだよね(笑)。円山音楽堂だったかな? 客がなんやらヤジったら、「誰や! いま言ったのは!」ってチャー坊がステージから降りて来てさ、会場はシーンと凍りつくわけ。すると、パーン!っとマイクスタンドを放り出してステージの袖に消えて行った。とにかく攻撃的で凄えバンドだなぁって印象だったよ。

いつの時代もどこまでも伝説のバンド/村八分Photo : 井出情児

 

『“東京ロッカーズ”も“東京ニューウェーブ”も“スピード”は蹴散らし続けた』

 

鳥井賀句/それでは再び『スピード』話に戻ります。

 パンクがまだ一般的じゃない時代に、六本⽊にS-KENスタジオができたんだよ、もとはワーナー・レコードの洋楽ディレクターのYさんが退職してスタジオを作ったんだけど、当時、彼もパンクに目覚めて知り合いだった田中唯士のバンド、『S-KEN』のメンバーになり、スタジオ名も『S-KENスタジオ』にして、そこで週末は東京ロッカーズのバンドを集めてイベントをやったりしていったんだよ、当時はまだライブ・ハウスはパンク系のバンドは出していなかったから、かなり客も集まったよ。

音楽プロデューサー S-KEN 97年 ドキュメンタリー MUSIC OVER DOSE


 そこで毎週末パンクのスタジオ・ライブをおこなったんだ。さっきも言ったように、『東京ロッカーズ』というのは、『ミラーズ』、『ミスターカイト』、『S-KEN』、『スピード』、『フリクション』、『リザード』だから、それらのバンドが演奏するんだけど、毎回ステージのトリは主催の『S-KEN』がとる。次は知名度があるモモヨの『リザード』。さて、3番目は誰になるのか、ってところでの話になるんだけれど、ケンゴは半端なくつっぱっているもんだから、

「なぁ、ガクちゃん、俺たちのどこが3番目なんだよ。あんな奴らにトリをやらしてもいいのかよ!」

 って迫ってくる。でも、仕方ないじゃん、そうゆう構図になっているんだから、そこはハナっから大人の話になっているんだって。

「じゃあ、こんなとこ(東京ロッカーズ)やめようぜ! やってらんないじゃん!」

 っていうことで『東京ロッカーズ』を飛び出したんだ。ケンゴが「俺たちは『東京ロッカーズ』なんかじゃないんだ」って突っ張っているのにはそういうストーリーがあるんだよ。

SPEED - Boys I Love You


 
 だけど、相前後して『東京ニューウェーブ79』の話が舞い込んできたから、その時は返ってよかったんじゃないか?! って思ったりしたよね。だったらコッチでいいじゃん! って気持ちにもなる。ビクターとしても『東京ロッカーズ』に居たバンドが一つでもアルバム入るのは歓迎なわけだし。だけど、何が気に食わないのか、ケンゴは収録した音を聴いた段階で、コッチにもNGを出した。理由は今でもわからない。とにかく頑固なんだよ。突っ張ってるし、何を言っても聞かない。

『東京ニュー・ウェイブ79』のフライヤー


 でもさ、ケンゴの家に遊びに行くとわりと質素なんだよね。普通、ロックなポスターとか壁に貼ってあるじゃん。全くロックのロの字もなくてビックリした。パンクやって、つっぱってる奴の部屋じゃねぇんだ。ちゃぶ台のある慎ましやかな暮らしの空間。まぁ、ストイックな在り方にも色々だなぁと思ったけどね。

 

『“PAIN”は不完全燃焼のうちに終わったバンド』

 

鳥井賀句/ケンゴと話して『スピード』のマネージメントは降りる事にした。ケンゴのあまりの頑固さに参ったのもあるけれど、自分のバンド『PAIN』をメインに活動したかったんだ。だけど、『PAIN』でも俺はギターのモジャとぶつかったんだ。彼の方が歳上だったし、うまくやりたかったんだけれど、お互いが主張し合って引くに引けない状況が多かったんだ。彼はリーダーになりたかったんだと思う。それはわかるけれど、曲や詞を作って歌っているのは俺だったから、そこら辺の権利関係は譲れなかった。

 『ホワイトシャドウ』って曲を俺は作ったんだけれど、弾き語りで作った曲だったからバンドでやる時に、モジャがラテン風のアレンジをしたんだ。だけど、アレンジはアレンジだろ? どこまでいっても作曲にはならないじゃん。俺たちにはそこら辺のせめぎ合いがあって、うまくいかなかったんだよね。後に『ゴジラレコード』が出したいとか、『テレグラフレコード』からも話があったけれど、俺はクレジットが正規にされなければNGだという主張を通したんだ。

モジャと鳥井賀句。何かとぶつかり合った


 それでも『PAIN』は、先の下北沢音楽祭の審査員で来ていたポニー・キャニオンのディレクターに絶賛されたんだ。デモ・テープを渡したらそれを聴いてくれたんだよね。それで、ポニー・キャニオンのスタジオでシングル盤用の録音をすることになった。俺はその時、レコーディング経験のあった『リザード』のモモヨを呼んでプロデュースをやってもらうことにしたんだ。結果は自分で言うのもなんなんだけれど、かなり良い出来だったと思う。だけどさ、俺とギターのモジャが上手くいかなくて、結局メジャーで録音したのに、バンドのほうがトラックダウンをやる前に解散してしまうってわけ。だから、その録音は永遠に封印されてしまったという顛末なのです。

『PAIN(ペイン)』



『パティ・スミスのLIVEを観るためにN.Y.へ』


鳥井賀句/高円寺に『ZOO』の編集部があってさ、『ZOO』は後に『DOLL』になるんだけど。そこの代表/森脇美貴夫くんと間章(あいだあきら)さんと共にニューヨークに行くんだよね。間章さんと⾔うのは⾳楽評論家で主にフリー・ジャズ畑で、阿部薫や高木元輝とかスティーブ・レイシ―などのフリー・ジャズのイベントなども主宰していた。だがこの頃パンクに興味を持ち始めていたんだ。

森脇美貴夫/著 ベスト・オブ・ザ・パンク・ロック (宝島COLLECTION) 単行本 – 1993 (70年代後半から現在まで、パンクを見つめ、ともに叫び続けてきた評論家・森脇美貴夫の青年期パンク評論を集大成。)


間章・あいだあきら/音楽評論家、現代思想家。新潟県生まれ。立教大学中退。1969年よりフリー・ジャズを中心とした音楽批評活動を展開し、イベントやレコードのプロデュース活動を行った。1978年12月12日、脳出血により死去。享年32。(一緒にN.Y.にいった頃の間さんは、写真のような風貌であった)


間章『時代の未明から来たるべきものへ 間章/著作集』月曜社、 2013年


間章『僕はランチにでかける ロック・エッセイ』柏書房、1992年。(ロックに関するエッセイ集。解説は村上龍)


 最初、森脇さんの知り合いやスタッフたちが俺の店に飲みに来たりしていて、俺のレコードコレクションに度肝を抜かしてたよ。俺は当時からマニアックだったから。例えば、『チープトリック』のリック・ニールセンが、以前に『ヒューズ』ってバンドをやっていて、「マスターはそれを知ってる?」なんて聞かれて、「知っているどころか持っているよ、ほら!」なんてレコードをかけたり、ビリー・ジョエルが実は1970年頃の売れる前に『Attila (アッティラ)』というハード・サイケバンドをやっていて、そのレコードをかけたりすると、「すげえなマスター!」なんてことになるわけ。そんなこんなで、『DOLL』の前⾝の『ZOO』に俺は記事を書くことになるんだ。「だけどウチはマイナーだからギャラは出ないよ」と⾔う森脇くんの温かいお⾔葉付きでね(笑)。

FUSE - Show Me

※70年作、後にチープ・トリックを結成するリック・ニールセンとトム・ピーターソンが在籍していたハード・ロック・バンド

Attila (Billy Joel) - Self Titled Album (1970) COMPLETE


ビリー・ジョエル/サイケバンド『アッティラ』


無名時代のサイケデリックなビリー・ジョエル


 その森脇くんが間さんを連れてくることになるわけだ。俺は間さんの文学的なライナー・ノーツが好きだったし、森脇さんのプログレを愛する文章も好きだった。その2人がパンクに興味を持ったと言うんだから、俺は一肌脱いでみたくなったんだよね。

 1977年の4月、首の骨を痛めていた『パティ・スミス』が復活して、 ニューヨークの『CBGB』でLIVEをするって言うんで、俺たち3人はそれを観戦しに行く事にした。まだ1ドルが240円の時代。確か航空チケットが25~30万くらいしたかな。間さんの奥さんがパキスタン・エアラインのスタッフだったので、チケットを取ってもらったんだけれど、33時間かけての渡航だったので少々くたばったのを覚えている。でもそんな思いをしてまで着いた『CBGB』は意外と小さくてさ、300人くらいしか入らないような箱なワケ。

 バカだよな、俺たち、何も調べないで行ったんだよ。当然すでにチケットはSOLDOUTになっている。慌ててホテルから東芝EMIあてに“パティ・スミスのチケットを手に入れろ!”ってFAXしたんだけれど、(パティ・スミスはEMI所属で、森脇くんが東芝EMIにコネがあった)すぐに“ムリ”って、たった2文字のFAXがザザーッと折り返し流れてきた。ところが、「どうするんだよ!?」って慌てているのは俺だけで、驚いたことに2人は飄々(ひょうひょう)としている。諦めの速さは天下一品なのさ。俺は“ふざけんな!”って勢いで『CBGB』に1人で向かったんだ。


 真昼間でまだ誰もいない『CBGB』に行って、「オーナーのヒリー・クリスタルに会いたい」と訴えたんだ。当然、受け付けてもらえないのだけれど、俺は「Tokyo,Japanからわざわざ来たんだ」って食い下がった。そうしたら根負けしたスタッフがオーナーを呼びに行って、ヒゲモジャのジェリー・ガルシアみたいなヒリー・クリスタルが「なんだ? お前は!」とか言いながら現れたんだよね。俺はなおも自分は音楽ライターだと自己紹介をして、「パティ・スミスを日本に紹介したくて33時間もかけて日本から来たんだ」と訴えた。「チケット代は払うから、なんとかしてくれないか」って。そうしたら熱意が通じたんだね。特別に3枚のチケットを購入することができたのさ。喜び勇んでホテルに取って帰って、飄々としている2人を連れて会場入りをしたら、なんと、俺たちの席はステージの真ん前だったんだよ。

 

クリスタルは1973年、ニューヨーク/イーストビレッジ(East Village)のバーでCBGBを始めた。店の名前は、カントリー、ブルーグラス、ブルース(Country, Bluegrass and Blues)の頭文字から取られた。その後、当時無名だった若手ロックバンド、テレビジョン(Television)とラモーンズ(The Ramones)に出演を許可したことをきかっけに、アンダーグラウンド音楽とパンクロックの中心地となっていった


 『パティ・スミス』のステージは当然だけれど、ヒリー・クリスタルの配慮に、すげぇ感激したのを覚えている。あれは1977年の4月、俺は25歳になっていた。たぶん日本人の中で俺たちが最初じゃないかな、『パティ・スミス』の靴下の色まで確認したのはさ……。


1988年/パティ・スミスと共に

Patti Smith - Dancing Barefoot - 1979-CBGB's


 結局、ブラックプールは、ライターの仕事が忙しくなってきて、海外に行く機会も増えたこともあり、1980年くらいには閉めた。それは、『東京ニュー・ウェイブ79』がビクターから出た翌年ぐらいだった気がする。

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◉『スピード』は結局、青ちゃんが抜けた後、気が抜けたように解散した。青ちゃんは一世代若いブラックプールの仲間たちと『フールズ(THE FOOLS)』を結成して活動することになる。

 賀句さんは『宝島』をはじめとした各雑誌に、音楽ライターとして寄稿するようになり、通常の音楽評論家よりも、もっとディープなミュージシャン寄りのイメージを期待されたため、内外の音楽シーンを駆け回ると共に、ミュージシャンとの直接的なコンタクトも増えていった。

 その中の1人がジョニー・サンダースである。

 彼とは仕事抜きでフランスで出会い、ジョニー・サンダースが初来日した時に、日本にいる唯一の友として呼ばれて(頼られて)いた。賀句さんは、日本のミュージシャンとして山口冨士夫を「Japanese Keith Richards」と称してジョニー・サンダースに紹介した。が故に、その後の賀句さんは、2人の類まれなる個性の持ち主に翻弄されつつも、そこらの音楽評論家では味わえなかった『Sex, Drug and Rock’n’Roll』を、それこそディープに体験した唯一無二の人物だと僕は思っている。

「ジョニーと冨士夫との未曾有の体験で、どんな奴が来ても驚かなくなったよ」

 そう言いながら、賀句さんが2本目のボトルから赤ワインを注ぎ、グイッと喉の奥に流し込んでいる時点で、すでに話し始めてから3時間が経過していた。

「それで? なんだっけ?」と賀句さん。

「ジョニー・サンダースの話をしてください」

 すると賀句さんは、目線を足下にあった『ブラックプール』から上げ、何も無い宙に向かうように喋り出した。

「ジョニーと初めて会ったのはフランスなんだ…」

 その瞬間、僕らの想いは遥か時空を彷徨い、お互いの想像力に委ねていく。それは、いつのときも愉しい旅の始まりのように…。

(第11話ブラックプールから見る景色/スピード/ペイン/東京ロッカーズ』終わり▶︎第12話に続く/12話こそ!ジョニー・サンダース、山口富士夫/他が登場します!

SEX ZOMBIE By HALLUCIONZ


●カスヤトシアキ(粕谷利昭)プロフィール

1955年東京生まれ。桑沢デザイン研究所卒業。イラストレーターとして社会に出たとたんに子供が生まれ、就職して広告デザイナーになる。デザイナーとして頑張ろうとした矢先に、山口冨士夫と知り合いマネージャーとなった。なりふり構わず出版も経験し、友人と出版会社を設立したが、デジタルの津波にのみこまれ、流れ着いた島で再び冨士夫と再会した。冨士夫亡き後、小さくクリエイティブしているところにジョージとの縁ができる。『藻の月』を眺めると落ち着く自分を知ったのが最近のこと。一緒に眺めてはどうかと世間に問いかけているところである。



HALLUCIONZ


◉鳥井賀句LIVE INFORMATION◉


★2月16(金) 『地下室のメロディ』

@CLUB DOCTOR 荻窪

前売り2500円・当日3000円+ドリンク
18時半開場/19時開演

●出演
✡️弦詞人ユニット
✡️武田康男+竜二(蜘蛛蜥蜴)+斎藤篤生
✡️HALLUCIONZ (鳥井賀句)
✡️THE COCKSUCKER BLUES BAND(from the VODKA)
●DJ鳥井賀句

 

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★2月23日(金・祝)『寺本幸司presents/

2024 NIPPON フォーク&ロック バンドNight』

@久米川スナフキン


チケット3000円+2drink
17時開場/18時開演

●出演
✡️鳥井賀句&YOZI
✡️TETSU-KAZU
✡️蓮沼ラビィ

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★3月24日(日)『SONG SPIRITS vol60』

@高円寺ムーンストンプ

1500円+drink
18時半開場/18時45分開演


●出演
✡️鳥井賀句&YOZI
✡️FUJIYO
✡️ZUCCO /その他

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★4月19(金)『地下室のメロディ』

@CLUB DOCTOR 荻窪

前売り2500円/当日3000円+drink
18時半開場/19時開演


●出演
✡️THE VODKA
✡️HALLUCIONZ (鳥井賀句)
✡️ DISAGREE
DJ鳥井賀句

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◉藻の月/LIVE INFORMATION◉

3/2(土)新宿UNDER GROUND

Azzitto1224【Ride On Baby】

【Soul to Soul Vol.3】

⚫︎藻の月
⚫︎Yuzo Band
⚫︎THE BLOODY KNIFE
⚫︎THE SHOTGUN GROOVE
OPEN 17:00/START 17:30

.¥.¥3000+order

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【Cocksuckers / Live At Shibuya Yaneura 1983】3/13 OUT!

70年代後期、東京のアンダーグラウンドシーンを駆け抜けた『自殺』のヴォーカル川上浄が後にウィスキーズ等で活動するジョージ等と組んだ幻のバンドの未発表音源が遂に!


 

 

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