【連載小説】『陽炎の彫刻』5‐1
年が明けた。その年の東京は雪が降った。
僕は雪の降る中を滑りそうになりながら歩いていた。休日の昼頃。通りには僕だけではなく、何人かの往来がある。後ろの方からコンクリートに金属が引きずられるような音が聞こえた。通りを歩く多くの人が振り返って音の在処を探した。タイヤにチェーンを巻いたバスが慎重に通り過ぎていく。この街の人の多くは、雪に慣れていない、もしくはそれを忘れてしまっている。
僕は寒さと靴下に染み込んだ水の不快感に加えて、手に持っている荷物の重さで、少し気が滅入っていた。なんだってこんな日に買い物に行こうとしたのだろう。雪の予報が耳に入っていたのにもかかわらず、買い物の予定を早めなかった自分がいけなかった。まさに僕の怠惰な性格が災いした日だった。思い返せば、この頃から僕は凍ったように何も変わっていない。
家に帰ると、びしょ濡れの靴下を洗濯機に放り込んで、浴槽に薄く湯を張った。その間に、レジ袋の中身を冷蔵庫に入れたりして片付けた。着ていたダウンジャケットを脱いでハンガーに掛け、部屋の暖房をつけた。
携帯電話を持って風呂場に行き。湯を薄く張った浴槽に裸足を入れ、浴槽の縁に腰を落ち着ける。裸足で湯をバシャバシャとかき混ぜながら、携帯電話を確認する。奈沙から電話が入っていた。僕は折り返した。
「もしもし。」奈沙が出る。
「もしもし。」
「もしかして寝ていたの?」
「買い物に行っていたんだ。」
「こんな雪の日に?」
「そう、こんな雪の日に。」
彼女は電話の向こうでクスクス笑った。
「僕だって好き好んで、こんな雪の日を選んで買い物に行ったわけじゃないんだよ。ただ、冷蔵庫がもう空っぽでね。」
雪はまだ降り続いていた。雪の積もった街は、空が曇っていても、普段より明るく見える。さっきまで冷え切っていた足を急激に温めたからだろうか、しもやけで足が少し痒くなってきた。
「声がすごく響いているわね。どこにいるの?」
「家だよ。風呂場にいるんだ。足湯をしていてね。」
僕は浴槽の湯を落として、風呂場を出た。
奈沙とは年末に何回か会うことができた。今年中に会うという約束は、無事に果たされたのだ。忙しかった仕事もひと段落して、奈沙とこうして連絡をとり合ったり、顔を合わせたりたりする時間もそれなりに確保できるようになっていた。
それから僕たちはお互いの近況報告や、最近目星を付けている映画や音楽の話に終始した。電話を切ると、僕はコーヒーを淹れた。部屋はすっかり暖まっていた。テレビを点けると、東京の雪の様子がニュースで報じられていた。八王子の方では、膝まで雪が積もっていて、交通網もすっかり麻痺してしまっているという。
ー続ー
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