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【エッセイ】ニュアンス論~「願い」と「祈り」~

 突然だが、こんな場面を想像してほしい。とある神社にあなたは友達とお参りに来ている。本殿の前で、お賽銭を投げ入れ、柏手を打ち、手を合わせる。頭を垂れて目をつぶる人もいるかもしれない。しばらくして、順番を待つ後ろの人に場所を譲る。帰る途中に、友達にこう聞いてみる。「何お願いした?」
 例えばこんな時。今夜は流星群が空を駆け巡ると予報があった。恋人とあなたは、山の上に行って、その流星群を観察する。流れ星を待つ間、あなたと恋人は寄り添って、家で淹れてきたコーヒーを飲みながら星が滑るのを待っていた。「流れ星が消えるまでに願い事を3回言わなきゃいけないんだよ。」そう言って張り切る彼女のほほえましい体温を感じながら、山の上の澄んだ寒さに抗するために暖をとっている。そんな時、ふと空に星が流れた。「あー、間に合わなかった…。」突然の出来事に願い損ねた彼女は落胆する。次に彼女はあなたに尋ねる。「君は何をお願いしたの?」
 この二つの例に共通するのは、他人に願い事を尋ねていることだ。お参りに来た人も、流星群を観察しに来たカップルも、何か願い事をすることが前提のコミュニケーションをしている。
 最近、連載小説の「晴子」を書いていて思ったのだ。「晴子」の冒頭は、主人公の晴子が、自分自身が晴子たる所以についての自問自答を展開するところから始まる。この問答で晴子は、人の名前には名付け人の「願い」や「祈り」が込められているのだろう、という前提で推測を展開している。ここで、「願い」とよく似た意味で用いられる言葉「祈り」が現れる。「晴子」を書いている中で、こんな疑問を持った。「祈り」と「願い」はどう違うのだろうか。
 私たちは普段、この二つの言葉を大体同じ意味で用いている。しかし、よく似てはいるけれど、そこには何かニュアンスの違いが横たわっている気がしないだろうか。だって先の例で言えば、人は願い事を他人に気軽に聞いていたけど、どうしてか「祈り事」は気軽に聞かない。
 今、これを書いている私の目の前にある国語辞書で意味を引いてみよう。(少し古い辞書だが、「祈り」や「願い」の意味はそう頻繁に変わるものではなかろう。)

祈る:①(自分の力ではどうしようも無い時に)神仏の力にすがって、よいことが起こるように、願う。②他人の上によい事が起こるように、心から望む。
願う:そうな(であ)ればいいと思うことの(を、神仏・他人に伝えて、その)実現を望む。
(三省堂『新明解 国語辞典』第6版)

 辞書の意味からして、この二つの言葉を共通点は、よい事を望むこと、という点にある。違いとしては、「祈り」の方は神仏へ向けてしかできないが、「願い」は神仏だけでなく人間に向けても可能な行為ということだ。
 こう見てみると、「願い」に比して「祈り」には、何か神聖なニュアンスが纏われているのが分かるだろう。それは、日常における実感としても分かる気がする。お寺や神社でお参りをする人を見ていると、何となく願っている人と祈っている人が見分けられる時がある。祈る人は、その背中が語りかけてくるものが違う。だから、そんな人に気軽に「何を祈ったか」を聞くことはできない。そこは踏み入れてはいけない他者の聖域なのだ。
 では、なぜ私たちは「祈り」に、その内容に足を踏み入れることを阻むようなある種の神聖さを感じ取るのか。それは単に祈る人が神仏の前にいるからというだけではない。
 先程、辞書で「祈る」の意味を確認した時、「神仏にすがって」という表現を用いてその意味を表していた。現在では、神仏にすがると言うと、神頼みや、他力本願で運まかせといったニュアンスで用いられるように、あまりいい意味では用いられないのだろう。それゆえ私たちは、神仏にすがる人間には、彼の不幸を見る。
 しかし、もう少し踏み込むと、「祈り」は神仏に関わるというニュアンスを含むだけあって、その行為は切実なのだ。
 「祈り」という言葉の周辺を見てみよう。私たちはよく、「祈りを捧げる」と言う。この「祈り」をという言葉の後に「捧げる」という言葉が続くのは、考えてみると少し面白い。「捧げる」という言葉には、「自分の手を離れていく、あるものから手を離す」という含みがある。つまり「祈りを捧げる」とは、「自らの望みを手放す」ことを意味する。しかし、なぜ望みを手放すことができるのだろうか。
 人事尽くして天命を待つ、という言葉がある。望みを手放せる者は、この人事を尽くしたからこそ、そうできるのではないだろうか。人事を尽くし、あとは神に委ねるしかない。逆に言えば、神に委ねるしかないところまで、人事を尽くし切ったと。だから私たちは、その望みを神に向かって手放すことができると。そこには、神頼みや他力本願といった陳腐な似非リアリストの冷やかしが入り込む余地はない。人事を尽くす者は、その限界をも自覚しているという点では、奴らより遥かにリアリストなのだ。
 逆に、「願う」という言葉には、その望みを固く握りしめるというニュアンスがある。望みを手放せるまで、人事を未だまっとうしていない、あるいはまっとうしたという自覚を持たない者が「願う」のだろう。
 祈りとは、人事を尽くしたまさにその極みにおいて、もはや神に縋るしかない人間の言葉なのだ。願いとは、ある種の極みに至る最中の者の言葉なのだ。
 こう考えてみると、祈る者は、まさに祈るその時点において幸福あるいは充足の到来を確信していると考えられないだろうか。祈りを捧げた時、彼の問題は望みが叶うか否かという結果よりも、その結果に関わらず到来するであろう幸福や充足に移っているのだから。そして、その確信には同時に、人事の限界に至った者の美しい諦念がある。
 受験前日の夕方、神社で合格祈願をする二人の学生を想像しよう。祈る学生は、今日まで人事を尽くし、自分のできる精一杯の勉学に励んできた。彼は、合格という祈りを捧げる。手放すのだ。後は、当日の受験問題が対策してきた傾向とは違うかもしれないし、自分より遥かに優秀な人間に押し出されるかもしれないし、体調を崩したり、天候によって遅刻したりなどで実力出し切ることはできないかもしれない。それでも、彼は自分の積み重ねた日々を後悔したりはしないだろう。それらをもはや人事の外にあると諦め神仏に委ねるからだ。
 もう一人、合格を願った学生がいる。彼は、自分が人事を尽くしたかどうか懐疑的である。彼は願う。自分の未完遂の人事を、神が気まぐれに与える幸運が補ってくれるように。彼は、合格したいという望みを固く握りしめる。望みが叶わなかった時、彼はこう思う。「この1年の自分の勉強は無駄だったのか?」彼は望みを手放せないから、積み重ねた自分の1年を手放すことができず、それに執着することになる。対して祈る者は、もはやその1年が無駄になるか(なったか)どうかを問題にする次元にはいないのだ。
 ハンナ・アレントが、『人間の条件』(1994)に印象的な言葉を残している。

もっとも、多くの人びとは「幸福の追求」の過程で幸運の方を追いかけ、それにめぐり会ったときでさえ不幸になっている。
ハンナ・アレント(1994)『人間の条件』志水速雄訳、ちくま学芸文庫、pp164-165。

 彼女によれば「幸運とは、まれなものであり、けっして永続せず、追求することもできない」(p.164)ものである。祈る者は、いたずらにこの幸運への望みを固持するのではない。幸福がまれであり永続もせず、追求することが不可能であることを自覚した上で、人事を究極まで尽くし、人事では得られないそれへの望みをむしろ手放すのだ。
 『晴子』の執筆を始めた時、私はこの使い分けに疎かったのだ。書いて公開してしまったものを今更書き直すのは気が引ける。これは執筆を始め当初に対する、後悔の一つだ。もう少し、ニュアンスに気を配って書けなかったものか。
 名付けというのは、「願い」なのだろうか?それとも「祈り」なのか。そのどちらでもないのか。読者には今しばらく、お付き合い願いたい。

引用文献
三省堂『新明解 国語辞典』第6版。
ハンナ・アレント(1994)『人間の条件』志水速雄訳、ちくま学芸文庫。


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