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ツアーナースは私の天職

 旅行認定看護師を取得したのは2017年のこと。それまではなんとなく旅好きが嵩じて偶然の産物のように、急に台湾に飛べませんか??っていう電話がきっかけでいただいた仕事でした。 いつか旅が仕事になったらいいなぁとずっと思っていたけれど、旅行会社で働いていた主人を見ていて、旅ではなく仕事なんだ・・・っていう感覚になるまでは「いいなぁ。。ずるいなぁ・・」なんてそんな無責任な言葉を投げかけていたダメダメ奥さんでした。

 この仕事に出会うまでは子育ての合間に健診のバイトに行って、採血や血圧測定、視力検査などを受け持ち、健康診断を企業先で行う健診ナースなるものをやっていました。本当はバリバリ働きたかったけれど、家を不在がちな主人の仕事と私の看護師としての仕事は夜勤があったり、残業があったり、どうしても他人に迷惑をかけることも出てくるであろう職業で、保育料も当時はものすごく高くてパートに出るくらいなら家にいた方がいいよというくらい、仕事で稼いだものがそのまま保育園代になるという時代でした。(今もそう?)

周りの同業がバリバリ仕事をこなしているのを横目に、自分は自分・・・と言い聞かせ、主婦、お母さん時々ナース・・・それで満足していました。
だけど子供たちがそれぞれ大きくなって、家に私が常にいなくてもいいくらいになった頃、私は暇を見つけては親友と海外旅行に出掛けて気付いたらその頃には既に30カ国も訪れている旅なれたちょっとした達人に。
そんな時にたまたまもらった海外に行く仕事。しかもお金をもらって。。。すごく興奮したし、出発まであと6日くらいしかなかったのですが即決で決めました。

予定していた看護師が急病で行けなくなったための代替でした。なので、先に現地入りして空港で現地ガイドと合流して待っていてくださいというものでしたので、飛行機も別のLCC利用。。。一番最初に乗ったLCCがこのツアーナースでの仕事のバニラでした。

それからこの仕事をちゃんとやってみたいと思ったのは少し後で、そこから旅行認定看護師やBLSプロバイダーと言って心肺蘇生などに人の協力を得て指示したり率先して救急時に動ける勉強をしたり、旅に関する色々な本などを読みました。でも当時働いていた産婦人科で主任になり、師長がいない職場だったこともあり一番上に立つ立場になったので、簡単に辞めることができませんでした。なので時々依頼が来ると最初は興味で行ってみたいな。。そこ・・っていう感じで、国内旅行の同行や高齢者のツアーの同行などそういうものに時々クリニックをアルバイトさんに任せて行っていたのです。ツアーナース先で翌月の勤務表を作ったり資料作りなどを夜な夜なやりながら・・・笑

だけど本格的にこの仕事に携わりたいと思ったのは、2017年の日中友好親善団という大変に重い仕事を任され、中国に行った時でした。
満州という名前は学校でも習ったし、勉強が嫌いな私でも愛新覚羅溥儀などの人物がどういう人だったのかなどは存じていました。
まさか、その地に実際は戦没遺児として供養に訪れる方々の同行とは公には言えない中国との関係に、ひっそりと、だけど丁寧にことを遂行するために、高齢の方々の健康管理に気を配り出掛けたことは本当に私にとって勉強になることがたくさんあり、そして人とのつながりを大事にしたいと思う絆みたいなものが生まれた旅でもあったので、以後、ロシアに行った時も、フィリピンに行ったとき、次の年の中国はまた別の地域で6000キロも移動したこと、たくさんの思い出と出来事と出会いと悲しい心の内や、幾つになっても親を慕い、写真でしかみた事がない父親の辿ったであろう地に向かう勇気を私は目の当たりにして、その旅の目的を無事に遂行するためには私の気配りがどれほど重要で、観察や配慮、色々と学ばなくてはならない事がたくさんある事に気づき、いつしかやり甲斐に変わって行ったのを覚えています。

それからは修学旅行生の海外同行や、ホームステイの待機看護師など色々と経験を積ませてもらい、これからという時に新型コロナで旅行自体がストップするという悲しい結果になりました。

食べていかなければならない私は病院に戻る選択をして、今度こそ正社員として就職を決めたのです。それでもツアーナースの会社の社長はご自分こそ大変だったと思うのに、私に頑張れと応援してくださったのです。気にしなくていいよ!とも。
あれから3年経ち結局私は気付いたらツアーナースに戻っていました。

最初は離れていた3年間の中で少なくとも稼働していた団体や学校はあった様で、その中で少ないながらも継続していた方がメインで働いているのを感じながらも、地道に頂ける仕事を選ばず受けて、気付いたらツアーナースじゃなくてハイキングナースじゃない?と友人に茶化されたくらい、子供たちとハイキングに行くような仕事がほとんどのハイキングナースになっていました。
それでも一期一会を大切に業務をこなしていたら、ある時私のことを褒めてくださった旅行会社の添乗員さんがおられ、それがきっかけで実に4年ぶりの海外のお仕事をいただける事になりました。
しかもずっとお世話になっていた会社ではなく、小さな仕事をコツコツとこなしていたところで、海外の仕事はないと言われていたけれど、ようやく私の評価が認められて本当はあった海外の案件を案内をされ、しかもまだ私が行った事がない北欧の仕事でした。

それはそれは夢のようなお話で、私は事前に北欧の医療体制や病院受診のことなど色々と調べ、緊急時にすぐにサマリー(看護要約)が書けるように独自に英文の叩き台を作り、いざという時には利用できる様にと。。。
だけど実際にはそれを開く間も無くいきなり怪我をした児童が出てしまい、私は半ば殴り書きのような汚い英文で(しかもスペルミスはするわ、なんだってこの慌て様)と恥ずかしくなりましたが、なんとか大ごとにならずに病院から帰ってきた時には母親の様な気持ちで報告を受け安堵して眠りにつきました。

ヘルシンキの市内は賑やかだったけれど、少し北の地域は国定公園が広がり静かな湖の街でした。

その子供たちともあっという間のお別れに、現地の交流のあった児童も泣いて別れを惜しみ、私はその姿を見て素敵すぎる!このピュアな気持ちの子供たちと一緒に過ごせた幸せ。 そして無事に親御さんにお返しできた達成感。 これが辞められない私の仕事だって心から思いました。

ある程度ツアーナースをやり始めて、すぐに主人には悪いことを言ったなと反省したのは、どんなに初めての素敵な場所でも、感動はあるものの旅だとは一度も思った事がないくらい緊張もするし、不安な夜もあります。自分の判断が正しいのかどうか、だけど経験と勘、そして母として生きてきた自分の人生の集大成はここにあると言えるくらい、ブレずに頑張っていこうと思うツアーナースはまさに私の仕事そのものなのです。

#私の仕事

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