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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[184]第8章 風雲、急を告げる

                          安達智彦 著 

【この章の主な登場人物】
ナオト ∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙ 匈奴で砂鉄を焼き、鋼の剣を作ろうと取り組むヒダカの青年
漢の大将軍 ∙∙∙∙ 居延城を出て十万に迫る大軍を率い、北進して匈奴軍と戦う
匈奴の単于 ∙∙∙∙ 漢の大軍を迎え撃つ匈奴国の王。狐鹿姑コロクコ単于ゼンウ
匈奴の左賢王 ∙∙ 単于ゼンウを助けて漢と戦う匈奴東部を統括する王族
メナヒム ∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙ ナオトに鋼を作らせる匈奴の隊長。漢軍を追う千騎の主将
エレグゼン ∙∙∙∙∙∙∙∙ 漢兵と戦う匈奴の若き英雄。しなる手応えのナオトの剣に驚く
李廣リコウ ∙∙∙∙∙∙∙∙∙ 自らをニンシャ人と呼ぶ技術集団を漢の自領に移した将軍
李陵 ∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙ いまは匈奴に住む漢の元将軍。李廣将軍の孫
イシク親方 ∙∙∙∙∙∙∙∙ トゥバから匈奴に招かれた、タタールの技を極めた鍛冶
 
「第8章 風雲、急を告げる」のあらすじ
 晩春、五月。全匈奴が夏の牧地へと移動する隙を突いて、漢の大軍団が沙漠ゴビと東ボグド山とを越え、匈奴国に攻め入った。左賢王を中心とする匈奴の騎馬兵団がオンギン川でこれを迎え撃った。
 漢兵が匈奴河とよぶこの川を挟んだ攻防戦において匈奴は、メナヒムの著しい戦功もあって、漢軍を退けた。
 この戦さの間にナオトは、前の年からずっと取り組んできた剣を完成させた。それは、漢兵が持つものに比べて短く、細身ながら、振り下ろすとしなるような手ごたえのある剣だった。
 遁走し沙漠に潜む漢の大将軍が見つかったという報が烽火のろしにて寄せられた。敗れて散らばる軍勢を拾ってまとめながら、南の居延キョエン城に向けて走っているという。
 左賢王はメナヒムを追捕の主将に抜擢し、逃げる漢の大部隊を追わせた。
 エレグゼンはこの追撃戦で、背に負うナオトの剣をはじめて抜いた。
                     【以上、第8章のあらすじ】
 
第8章 風雲、急を告げる
第1節 ナオト、北の疎林へ

[184] ■1話 山ので動き出した鋼作り       【BC91年12月】
 大きな川のほとりの気持ちのいい場所に土の城があり、その中に、屋根で隠れた鉄窯と鉄囲炉裏とがある。土城の真ん中にはヒダカの善知鳥うとうの大岡にあるのと同じような大きな寄り合い所が建っている。皮をいた丸太の端を斧で削り、ニンシャ人たちが鋭い声を掛け合いながら太い綱を引いて持ち上げ、組み上げたものだ。
 寄り合い所の真ん中と北の隅には石組みが設けてあり、寒くなったら火を焚いて暖が取れるようにと、石の板と粘土を合わせて積んだ煙突が二本、屋根に向かって伸びている。
 土城の塀越しに南を見渡すと、川を隔てたはるか先に小山が二つ見える。その右手の先、この山のの鉄窯を西から護る位置には同じ造りの別の土城があって、メナヒム配下のうちの十騎とその家族が近くで放牧し、また、狩りをするなどしながら鉄窯とニンシャ人たちを警護していた。
 また、ケルレン川沿いに東に行ったところには三つ目の土城があり、その近くにも別の十騎と家族が付近を牧地として住み、東の方角に目を光らせている。
 タンヌウラ山脈の北から移ってきたニンシャの工人たくみはいまでは十二人に増え、九家族がまとまって土城近くの広い原に建てたゲルに住んでいた。
 作りかけになっていた二番目の鉄囲炉裏の小屋もでき上がり、こちらでも鋼を打ちはじめた。
 ――これはハンカ湖に向かう舟の上でハヤテが言っていた、「何人も集まって炭火を焚いて鉄を熱し、鍛えている場所」そのものだ……。
 そう、ナオトは思う。
 こうして、鋼の生産は十二人のニンシャ人の手によってようやくメナヒムが望むように進みはじめた。

 ナオトは、そうと自覚しているわけではないものの、鉄と武器とを作る鉄窯の真ん中に身を置くことになった。そうはいっても、鉄作り、鋼作りにもっぱら携わっているのはトゥバから来た人々だった。その工人たくみたちは、七日に一度みなで休みを取るだけで、雪がちらつく中でも鋼作りを止める気配は見せない。
 ナオトが、一人、山の端の仮りのゲルで寝泊まりするようになって、月の満ち欠けをすでに三度数えた。
 イシク親方が鉄窯に火を入れるときを別にすれば、すでに運んであるトーラ川の砂鉄が滞りなく鉄窯脇に積まれているようにするのがナオトの主な仕事になった。それと、マツを切り出し、炭焼きを指図して置き場に木炭を欠かさないようにする。
 砂鉄も木炭も、ニンシャ人が着くとすぐにエレグゼンたちの手を借りて用意したので、この先二月ふたつきほどはもちそうだった。
 この山ので自分にできることはもうないと考えたナオトは、親方に、
「少し、一人で試してみたいことがあります」
 と断って、北の疎林の炭焼き窯に仕事場を移した。自分がいてもいなくても、イシク親方たちは鉄と鋼を作り続けるだろう。ならばこの手で、エレグゼンのために鉄剣を作ってみようと思った。
 この二月ふたつき余り、黒砂鉄と赤砂鉄を焼いて大きな塊にするところを何度も見せてもらった。焼くときにはいつも手伝った。
 何よりも、鉄囲炉裏でイシク親方サルトポウからさまざまなタタールの技を教わった。これを自分のものとして、この後は、親方が焼いた鋼を使って剣を作ってみる。できることなら、どう違うものか、フヨの鋼も扱ってみたいと思った。
 そう決めたナオトが立ち向かおうとしているのは、後世の刀工が一から行う修業のような難事だった。

 どうしても試してみたかった。
 ――おのれの手でやってみて初めて、ボルドの扱いとイシク親方の教えの意味がわかる。あの黒砂鉄から何が生まれるのかをこの目と手で確かめることができる。
 そのために、エレグゼンに手伝ってもらって、前に使わせてもらっていた小振こぶりのゲルをメナヒムの冬の牧地の西の外れに新たに建てた。北の疎林に通うには近いが、その分、メナヒムやエレグゼンのゲルからは離れることになる。
「下が凍っているので、はじめのうちは寒いぞ」
 と言われたが気にはならない。
「本当に、ここでいいのか?」
「ああ、ここでいい」
「食い物はどうする?」
「ときどき、お前のところまでもらいに行く」
「そうか。そうするか……」
 ナオトはこのゲルで寝泊まりして、毎日、北の疎林に通った。時折り、みちが薄っすらと雪をかぶっていた。

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第8章の目次 【各節の初めへ移動するためのリンク】
 第8章1節 ナオト、北の疎林へ [184] 冒頭へ
 第8章2節 剣作りに挑む [188] へ
 第8章3節 オンギン川の戦い [190] へ
 第8章4節 戦さを終えて [194] へ
 第8章5節 閃き [197] へ
 第8章6節 追撃 [202] へ

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