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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[185]北の疎林に移る

第8章 風雲、急を告げる
第1節 ナオト、北の疎林へ

[185] ■2話 北の疎林に移る
 北の疎林。前にナオトはここで焼いた鉄を使って小刀を作ろうとしたことがある。何度やってもうまくいかなかった。ただの棒にすらならなかった。
 ――焼き方を変えた鉄を使えば違うのだろうか……?
 はやる心を抑えて、ナオトは丸太をって水おけを作ることからはじめた。水を張って、熱して叩いた後の鋼や、もしでき上ったならば、長い鉄の棒をけるのに使う。

 何も考えず一つのことに打ち込み、同じ動きを繰り返すと、心が澄んだようになってきて、それを終えた後には、体を動かしているときに浮かんでは消えたさまざまな考えの切れ切れが一つにまとまる。これは、ヒダカで土をねる作業から学んだことだった。
 ゲルに帰った後にシルの世話をするのがそうだった。冷え切ったゲルの中に引き入れたシルのくびを手元を見つめながら枯草で擦りはじめると、その日に試してみたイシク親方の教えが目の前に浮かび、体に染み込んでいくような気がする。
 水桶を作るのも同じことだと思った。
 そこで、薪にするには太すぎると手つかずだった丸太を鉄囲炉裏の側まで転がしてきて二本の薪の上に乗せ、手斧を使って少し削り、できた窪みに炭のおきを入れてがした。このあとは、煮立てた湯を注いで柔らかくした幹の内側を、研いだ鉄製の鏨の刃先で少しずつ削る。

 どうやって伝わったのかはわからない。イシク親方のところから北の疎林まで木炭と道具を運ぼうと決めたその朝早くに、ゲルの前までエレグゼンがやって来て、「おーいっ」と声を掛けた。入り口のヒツジの皮をめくると褐色の斑馬ぶちが見えた。
「おお、エレグゼン!」
「何か、運ぶものがあるだろう。木炭もいる。それは吾れの仕事だ。手伝う」
「それはありがたい」
 素直に嬉しかった。
 ナオトの新しいゲルから山の端までは、遠いというほどではないが、荷を運ぼうとすれば少しある。「ゆっくり行くか」と馬首を並べて歩き出した。しかし、いざ駆けはじめるとシルが黙って従ってはいなかった。
 山の端に着くと、寄り合い所の前に見慣れない葦毛の馬が繋いであった。
「そいつはイシク親方に使ってもらおうと、少し前に吾れが引いてきた馬だ。この後借りることになっている。少し待ってろ。親方を探してくる」
 しばらくするとエレグゼンが、木炭置き場にいたナオトのところまでそりを曳いて戻ってきた。イシク親方が顔を見せたので、ナオトは片手を上げ、「木炭をもらって行きます!」と大きな声で挨拶した。
「橇はヒダカでも使うか?」
「ああ。形は違うが、ヒダカでも橇は使う。雪の中でも、雨の中でも、重いものを運ぶときに使う。ただ、ロバや馬に曳かせることはない。ロバといえば、山の端の窯場までマツの木を運ぶのに何度か橇を曳かせた。ロバというのは賢い生き物だな」
「そうか……。ここでは、冬にものを運ぶときに橇は欠かせない。凍った土の上や氷の上で曳く。去年お前も行ったバイガルでは、凍った湖の上を曳いて向こう岸まで行くそうだ。荷車で運ぶのに比べて四、五日は短くてむという。
 それに、重すぎて、真冬まふゆに橇で運ぶしかないものもある。吾れはこのところ、この山の端に食料と土のすみを運ぶのに使っている」
 ――善知鳥うとうでは、大きな石を西山から降ろすのはいつも冬だった。そりに載せて、雪で滑る坂をみなでわいわいと言いながら曳いたものだ。吾れは、いつまで経っても同じことをやっている。
 ナオトは、いつか考えたことを繰り返していると気付いて、心の中でわらった。

 イシク親方に頼んで作ってもらった金床かなとこと箱型のフイゴが寄り合い所の隅に置いてあった。これを大きな叩き布フェルトくるみ、橇に積んだ。二つを守るようにして、木炭と固く焼いた煉瓦を周りに載せ、北の疎林まで曳いていった。
 エレグゼンに手伝ってもらって、金床をそれまで使っていた平石と入れ替え、また、フイゴの置き場所を考えた。熱を防ぐために作った土の堤が邪魔になって、うまく収まらない。
 エレグゼンは箱のような作りのフイゴをあれこれといじり、「うまい仕組みだ」と妙に感心していた。
「これならば風を送るのも簡単だ。それに、どうなっているものか、熱い風を逆に吸い込むこともなさそうだ。あれは危ないからな……」
 前の夏にここで、鉄窯のフイゴを汗だくになりながら三晩続けて踏んだときの記憶が頭から離れないのだ。
 作りかけの水桶の中に鏨を見つけて、焦げ跡に当てて削るような格好をしているので、
「いつか、お前の剣が打ち上がったら、その桶に張った水にくぐらす」
 とナオトが言うと、エレグゼンは鏨を桶の中に放って笑った。

 山の端と北の疎林を行き帰りしている間に、日はすでに傾きはじめている。
 氷が張った川の上を進むとき、鉄窯を守るようにして立つ土城の近くを通った。土城の一角を小さく囲むように回した木の柵に叩き布を掛けて、風を防いでいる。振り向いたエレグゼンが、
「今夜は寒くなるらしい。見てみろ。ああやってヒツジの群れを寒さから守っている」
 と言った。
 山の端の寄り合い所に戻ると、囲炉裏ばたで手をあぶりながら、これまで剣については口にしたことのないエレグゼンがぼそりと言った。
「……。しならない剣では骨は断てない」
 冬の牧地から自分で運んできた馬乳酒のわんに手を延ばし、
「だから吾れは、戦さに出るとき剣ではなく手鉾てぼこを持つ」
 と言った。ナオトが、突然どうしたという顔を向けた。
「しなるように感じる剣は確かにあると誰かが言っていた。だが吾れは、これまで出会ったことがない。剣は何十本も振ったが、どれもただの剣だった。ならば吾れには、手鉾の方が使いやすい」
 エレグゼンの述懐じゅっかいの真の意味がナオトにはわかっていなかった。そして、全く別のことを考えていた。
 ナオトが初めて鉄を間近で見たのは、西の海を渡る前に「この先、きっとるから」と、カケルが小刀をくれたときだった。鉄といえば、その小刀と手斧ておの鉄鍋てつなべ、それに鉄の鎚とたがねびょうしか手にしたことがない。
 だから、鉄とは硬いものだと考えていた。マツを伐り倒したり、その幹を縦に割いて薪にするのにこれほど役に立つものはない。
 ――その硬い鉄が、しなるというのか?
 ナオトには、エレグゼンの言っていることがいま一つ呑み込めなかった。

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