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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[186]鋼を鍛える

第8章 風雲、急を告げる
第1節 ナオト、北の疎林へ

[186] ■3話 鋼を鍛える
 仕上がった水桶に満たしておいた水が寒さのために凍っている。このままでは使えないのでどうにか炉の側まで動かして氷を鎚で割った、炉に火を入れると氷はいつのまにか溶けた。
 それまでの土をったつつみを崩し、下の溝はそのままに、煉瓦で壁を作った。
 その陰に置いた箱型のフイゴから送る風が鉄囲炉裏の炉の真ん中まで届くと確かめ、炉に木炭を入れて燃やした。屋根を掛けて周りを杉の皮と古い叩き布で囲っただけの小さな小屋の中が急に温かになった。木炭は、座るナオトの背の後ろに積んである。
 ――あとはボルドもとだ。

 雪晴れの朝、それをイシク親方から分けてもらおうと、山のまで出掛けた。
 見上げた薄く青い空に氷の欠片かけらただよい、陽の光を受けてきらきらと輝いている。
 凍ったケルレン川をすべらないように気を付けて北に渡った。夏の牧地の方角を知らせる積石オボーまで、久しぶりに思い切り駆けた。山の端には行き慣れているはずなのに、薄っすらと積もった雪のせいか、別の道のようだった。
 シルが馬銜はみを噛んでナオトに何かを伝えようとしている。ゲルから北の疎林までの日々の行き帰りとは違う景色の中、長い道のりを走るのがうれしいのだ。それが手綱を通して感じられ、雪を蹴散らして先を急ごうとするのを抑えるのが難しいほどだった。
 最後の三百歩ほどは川沿いに行く。見下ろす岸の大石はどれも新しい雪をかぶっていた。
 ――前に、大勢でここを通ってからもう半年になるのか。牧地に戻ってみなで火の周りに集まったとき、ザヤは嬉しそうだった……。いまごろ、どうしているだろう?
 冷たい冬の風を横顔に受けながら、ふと思った。

「ナオト、いよいよ剣を作るのか?」
「はい!」
 口にはしないが、イシク親方の背中は「頼むぞ」と言っているかのようだった。寒さのためか寄り合い所に集まっていたニンシャの工人たちが、二人の方を振り向いた。
 他とは光り方が違う鋼の素を多すぎると思うほど、親方が自ら選んでくれた。礼を言って、ナオトはそれを運び具のヘーベに詰めてシルの背に左右に振り分けて載せた。
「木炭も持っていきなさい」
 と勧められて、それも紐で括って載せる。
 山の端から北の疎林に向かう道でシルの背に揺られているとき、ナオトは、何度も見せてもらったイシク親方の砂鉄の焼き方を頭の中でなぞっていた。そのとき、突然、鉄窯の火加減がわかった。晴れた日の、陽の進み具合と同じだ。一日目は朝日の色、二日目には夏の中天にかかった陽の色、最後は沈む前の夕陽の色。
 ――そうか、土の器を焼くときと同じように、火の色の移ろいを見ればいいのだ。親方が次に砂鉄を焼くとき、この目で確かめてみよう。
 炭火を見るといつも、何もしないでこのまま消してしまうのは惜しいと思う。何しろ、砂鉄が溶けるほどに熱い火なのだ。それに、山の端の近くにはいい粘土がある。
 ナオトはそこで、鋼打ちにいたときの遊びに、北の疎林に運んだ粘土を使って鉄囲炉裏で大皿やわんを焼いた。器の形はさまざまだった。二つ三つ焼いてはゲルに持ち帰るというのを続けているうちに大変な数になった。
 ついこの間は、善知鳥うとうでカイと呼ぶ道具を作ってみた。竹の柄にハマグリの貝をわえて留めた道具だ。ここでは太い枝の先を削って使っているが、もっと使いやすいものをと、あぶった竹のヘラをしんにして粘土で覆い焼いてみた。いまでは、これなしでは汁物を椀にすくえない。

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