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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[187]エレグゼンと作った鋼の板

第8章 風雲、急を告げる
第1節 ナオト、北の疎林へ

[187] ■4話 エレグゼンと作った鋼の板
 その日は、エレグゼンが北の疎林まで来て手伝ってくれることになっていた。約束通り、昼前にエレグゼンが現れた。フイゴの扱いと鎚打ちを頼むつもりだった。
 ――この前のように、「せっかく来たのだ。何かもっとやることはないのか」とは言われずに済みそうだ……。
 イシク親方に教わった手順は、五つのソグド文字を組み合わせた覚え書きのようにして丸太を平らに削った面に彫り付け、くいのようにして炉の近くに立ててある。エレグゼンが興味深げに見ていた。
「ナオト、いつの間に字を覚えたのだ?」
「……。吾れが知っている文字は、そこに書いてあるものだけだ」
 鉄囲炉裏の中でくすぶるおきの上に木炭を重ねた。エレグゼンがフイゴの箱の取っ手を引いて風を送り、ナオトは燃える炭火にイシク親方が選んでくれた鋼の素を入れた。
 ナオトが座る削った丸太の後ろには、大鎚から手鎚まで、大きさの違う鎚が五つ置いてある。木槌も二つある。他に、鉄ばさみが四種と小板を合わせるときに使うコテ、炉をかき混ぜる鉄の棒が二本、揃えた太い薪を台にして並べてある。
 ――吾れが短剣と手鉾をゲルの枕元に並べて置いているようなものだな……。
 道具の列にちらっと目をって、エレグゼンが一人呟いた。
 鋼の素が炉の中で黄色に輝き出す。いつかと同じように、エレグゼンが見守る中、鉄ばさみで抑えて鋼を軽めに打った。割れたり砕けたりした欠片かけらを集めてはテコに載せ、再び熱して合わせ、小さな板を何枚も作った。
「吾れにもやらせろ」
 と、エレグゼンが言うので、小さめの鎚を握らせた。脇から見ているだけではわからない難しさがあるようで、思うように捗《はかど》らない。出来上がったのは小板というよりも丸めて延ばしたヒツジの糞のようだった。そのうちに、諦めたように鎚を返してよこした。
 できた板を試しに合わせてみようとなり、しばらく休んでいたエレグゼンが再び鎚を取って、ナオトが鉄ばさみで抑えつける熱した二枚の板を金床の上で打った。これを二人で代わるがわるにやる。
 ――いやあ、これはこれで力がいる……。
 
 このところ、みるみる日が短くなっている。もうなくなったと思っていたコメをエレグゼンがゴウの背に積んできてくれたというので、今日は早めに引き上げるかとなり、日暮れ前にゲルまで戻ってかゆを煮ることにした。
 着くなりコメを棒の先で軽く潰して水に浸けた。別の鉢に干したキノコを何種も取り混ぜて入れて水で戻す。
「ザヤは前に渡したお前の大皿が気に入っているようだ」
 と言うので、コメを水に浸けている間に、奥に置いてある土の器のうちからよさそうなものを選び、並べて見せた。そのうち、これはといういくつかを塩袋に入れ、「ザヤに」と言って渡した。
「全部、お前が焼いたのか……?」
 と驚くほどに、さまざまな形と大きさの器があった。
「ああ。鋼を打つときの火は熱い。そのまま冷ますのは惜しいと思ってな……」
 コメの湿り具合を指先で確かめてまだ早いなとは思ったが、キノコと一緒に土鍋に入れて火に掛けた。ヒツジの干し肉をかじり、皿に盛ったエーズギーをつまんでいるうちに鍋が煮立ってきたので蓋を取り、塩味を薄めに付けてかき混ぜた。
「まだ、しばらく掛かる……」
 久しぶりのコメはうまかった。匈奴の友は黙ったままふうふうと吹いて口に運んでいた。
 日はだいぶ前に沈んだ。今夜は星が見えている。風が出る前にとゲルを出て、途中まで二人並んで歩いた。エレグゼンが手袋を取り、右のてのひらを目の前に突き出すので見ると、血まめができていた。
「あれは、妙に力を使う。重ね合わせて棒にするとなるとなおさらだろう……」
 重い皮衣ごと、肩を二、三度ぐるりと回しながらエレグゼンが言った。ナオトが「うん」というように頷いた。
 昨日の雪をうっすらと載せたままの積石オボ―まで来ると、エレグゼンは別れを告げてゴウにまたがり、牧地に戻って行った。見送ったナオトは薄雪の残る道をゆっくりと引き返した。
 
 砂鉄集めから折り返しの鍛錬まで、鋼作りの一連の作業のうちでナオトは、ほとんど眠らず、めまいを感じるほどに休みなく続ける鉄窯の火加減が一番好きだった。
 隣りの者たちと目と目で励まし合って、汗だくでフイゴを踏む。あの、穴からのぞく火の中で、ぽとりぽとりと落ちるしずくが集まってボルドもとの塊になるまで、少しずつ、しかし確かに育つのを覗きながら過ごすときは何ものにも代えがたい。
 だが、好きなことが一番うまいこととは限らない。いまはじめたばかりの鉄打ちこそ、他者ひとには真似まねのできないナオトだけの技だった。
 作り置いた何枚もの小板を合わせて折り返す。そうしてできた鋼の塊を、へこみを作らないように叩いて厚みを加減しながら鍛え、鎚の角を当てないように気を遣いつつ、曲がっては戻し、曲がっては戻ししながら細く長い棒になるまで延ばしていく。根気がいり、力を使い、気も遣う。
 誰に教わったわけでもないのに、ナオトは、五感を頼りに鋼を鍛えていく。しくじってはやり方を改め、それを試してはまた直す。こうして磨き上げられていくおのれの技の大きさに、ナオトはまだ気付いていない。
 
 冬の一日は短い。雪は降っても積もらない。風が鳴り、その分だけ寒い。
 鉄囲炉裏の作業は、火の粉で焦げないようにと泥を塗った杉の皮を木組みの上に並べ、はしを細綱で留めて屋根にしている。四辺は、横に渡した棒に杉の皮と叩き布を重ねて掛けただけのものだ。朝、着いてすぐには寒さがこたえる。しかし、炉の炭火と鎚を振るう激しい動きが、いつの間にか、それを忘れさせる。
 ナオトが見たモンゴル高原の二度目の冬は、しんと静まり返った北ヒダカの雪深い冬とはまるで違っていた。

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