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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[202]メナヒムが率いる千騎

第8章 風雲、急を告げる
第6節 追撃

[202] ■1話 メナヒムが率いる千騎
 メナヒムの四人目の百人隊長は抜かりのない男だった。配下のうちから早駆けの四騎とく敵の後を追う一騎とを選び、糧食と水を多めに持たせて、密かに、退却する漢軍を追わせた。
 将軍旗を打ち捨てて逃げたハンの将軍は、何を思ったか、渡河を試みた地点から真南に右翼軍の生き残りを拾いながら逃げ延び、追っ手を振り払おうと砂の沙漠ゴビに入った。
 夏が近いこの時期、陽が照り、漠地が返す熱に耐えて敵の跡を探し、長い間追うことのできる者は、選りすぐった匈奴兵のうちとはいってもそうはいない。それを知る者が、「後を追える者は少ない。ましてや、戦さの後では備えなしには追ってこない」とでも将軍に耳打ちしたのだろう。
 砂地でしばらく時機を待ったその漢の将軍は、自軍の水と食糧が乏しくなったために風に波打つ沙漠ゴビの砂の原を出て、退却路のそこここで敗残兵と輜重しちょうの物資を拾いつつ東ボグド山の北麓を目指して動き出した。敗軍とはいえ、兵は相当の数に上った。
 メナヒムの百人隊長が送り出した物見ものみの兵二騎は、羽根飾りの付いた兜を手に持つ数人の隊長が将軍を囲むようにして兵団を立て直そうと動き回り、一団となって西に向けて退いていくのを見届けると、三騎をその場に残して元の陣まで戻ろうと駆け、また、急ぎ烽火のろしをつないだ。
 メナヒムからのしらせを左賢王を通して伝え聞いた単于は、敗走する漢軍をすぐにも追うようにと左賢王に命じた。
 オンギン川の戦いから六日が過ぎている。兵の半数はすでに牧地に帰した。
「追えるか?」
 と、問うた左賢王に、
「はっ!」
 と力強く応えたメナヒムに、
「よしっ、メナヒム。漢兵追撃のために千騎を預ける。選べ」
 と、左賢王が命じた。
 メナヒムは、まずは配下の兵を夏の牧地から呼び戻そうと、ありったけのオオカミのふんと生木を集めさせた。骨と毛の混じった塊に火を付ければ、烽火のろしは高くまっすぐに上がる。それを決して絶やさないようにと命じた。
 次に、左賢王の陣に残っている数千騎の中から子を持たぬ兵だけでなる十人隊を選りすぐって自らの隊の生き残り三百数十騎に加え、千騎にまとめた。
 追撃戦は、いつも捕獲物えものが多い。左賢王の軍の年若い兵たちはき立った。
 
 夏の牧地に戻って休み、牧場まきばで馬を遊ばせていたエレグゼンたち十騎は、メナヒムからの烽火による指令を受けた伝令がやって来て、
「行方知れずになっていた漢の将軍が砂の沙漠ゴビを出た。戻れ」
 と告げると、方々で声を掛け合いながら、急ぎ南にある本隊を目指した。
 戦場にせ戻るとき、エレグゼンは黒毛のゴウではなく斑馬ぶちまたがっていた。背に負うのはいつもの手鉾てぼこではなく、手にしたばかりのナオトの剣だった。
 ここ二日間、いろいろと試みた。骨ごと木にぶら下げたヒツジの肉を試しに切ってみたとき、骨まで届き、それを難なく断つほどの切れ味に心底驚き、これならば戦場で使えると確信した。
 ――手鉾とは違って、この剣は叩きつけるのではない。斬るのだ!
 バハルーシュが作ったわせのさやはそのまま使っている。つかと短めのつば――指を守る剣格けんかく――は自ら他の剣から移した。誰にいたものか、剣身を鍛え打つときに指掛けの突起を残し、それに木のつかを合わせて滑らないようにしてある。
 ――イシク親方が教えたか? まさかナオトの考えではないだろう?
 その突起と削った木をうまく組み合わせたつかに、馬の尻尾で編んだ紐と太めの皮紐をしっかりと巻き付けた。その上からさらに、った麻紐を密に巻いて滑り止めにしてある。
 
 メナヒムが先頭に立って追っ手の千騎を率いた。もはやメナヒムは、左賢王を傍らで護る守備隊長ではなかった。
 あと二日、早ければ翌日には敵軍に追い付くという夜、メナヒムは東ボグド山の東麓の宿営地で冷静に漢軍のこの先の動きを推し量っていた。
 ――単于が長い間狙ってきた酒泉シュセンから北に位置する居延キョエン城までエチナゴル沿いに急ぐとき、我らならば馬で三日足らず。漢兵の足でおよそ六日というのは動かない。
 いま南に逃げる漢の将軍が、引き返してきて我ら匈奴に対峙することはない。兵を割ることもないだろう。もし再戦となっても、必ずや、一度居延城まで戻って軍団の態勢を立て直し、人数を加えてから再度北に向おうとするに違いない。
 酒泉から居延城まで万を超す兵団が援軍に出ることはない。仮りに、来ようとしても、間に合わない。大部隊が城内にすでに控えている気配はないという物見からの報せもあった。
 いま、漢の兵は多かれ少なかれみな傷付き、かわいている。前の戦さからずいぶん経ったとはいっても、傷がえるほどではない。なお、速くは動けまい。隊列を組んで沙漠ゴビを渉り、そのうえであのトストオーラの山を越えるのは容易ではない。
 物見によれば、退却する歩兵の数は合わせて一万と数千。殿しんがりの隊が城門をくぐるまで少なくみても五日はある。その前に気付かれないように追い付き、先回りして叩く。
 これがメナヒムの策だった。

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