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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[203]エレグゼンの戦闘

第8章 風雲、急を告げる
第6節 追撃

[203] ■2話 エレグゼンの戦闘
 二日前にメナヒムの第一の百騎隊に合流したエレグゼンは、あらかじめ用意されていた運命のようにして、ガシュンノールの手前で次の戦闘を迎えることになる。
 居延キョエン城にたむろする漢兵は、祁連キレン山から北向きに流れてきた清らかな水をエチナ川で採る。いま、遁走とんそうする漢の将軍が向かっているのはその川岸だ。そしてこの川は、友のションホルが命を落とす四日前に仲間四人ではしゃぎながら馬で渡ったあの川だった。
 馬を隠し、十騎を二手ふたてに分けて伏せ終わると、エレグゼンは「あとは待つだけだ」と口にした。そして気が付いた。
 ――んっ。これは、ナオトの口癖ではなかったか?
 漢兵は進路の先の変化に気付いていなかった。将軍は、来るときと様子が違うという感じは抱いた。しかし、城までわずか数日というところまでようやく辿たどり着いた安堵と数を頼んでの慢心があった。
 敗れて走っているとはいえ、漢の辺境に配された精鋭軍の残り一万余。それに、糧食と矢を運んで迎えに出た居延の城兵と酒泉からの援軍三千を合わせ、部隊を新たに編成し直して殿しんがりを守らせている。
 
 最後尾を任された漢の隊長はオンギン川の左翼軍先鋒の生き残りだった。数百の兵を率いながら、馬が水草に足をとられて不覚をとった。怪我けがはない。しかし、「匈奴ごときに敗れて退くとは」という無念の思いをいよいよ募らせていた。
 士気は旺盛だった。願い出て、二百に近い兵からなる殿軍でんぐんの一隊を任されたことを心底喜んでいる。もはや、出陣前のような褒美ほうびと地位を是非とも奪い取るという気持ちの高ぶりは失せていた。
 ――もし追っ手が姿を見せ、戦さとなれば死ぬこともあろう。しかし、このまま、匈奴を一兵も手に掛けずに死んでなるものか……。
 指揮下の兵に語ることはないが、心のうちではそう覚悟を決めていた。
 ボグド山を出て以後、この隊長は背後への警戒を怠らず、また、ときどき馬を駆って全軍の最前方に出ては将軍の様子を窺い、遠くから将軍の側近と目で合図を交わして自隊に戻るということを繰り返していた。いまのところ、退路に異状はない。
 道が岩陰や丘の端に差し掛かると、とりわけ気を張った。「あの岩陰に」と当りを付ける。しかし匈奴兵はいない。「では、あの丘を回り込んだところか」と用心して進むと、そこにもいない。
 これを数日繰り返すうちに、さすがに、「何だ、気のせいか」と次第に緩みはじめ、「ならば」と遅れを取り戻しに掛かって、トストオーラ山を苦労して越えるとすぐに本隊との間にできた隙間を詰めるべく兵を急がせた。
 
 そうしてできる一瞬の乱れを見透かしたかのようにして、いま通り過ぎたばかりの大きな岩の陰に現れたエレグゼンの第一の五騎が強弓で後ろから射掛けた。漢兵の弓では届かないので応戦はせず、急いで本隊に追い付こうとする。その前方に第二の五騎が現れ、良馬にまたがって先頭を走る漢の隊長に矢を集めた。
 意気盛んだった長を失って隊列を乱した漢兵の部隊に、馬上に戻った十騎が前後から襲いかかった。エレグゼンが後方から迫り、剣で左右を払いながら駆け抜ける。四騎がそれに続いた。
 戦闘が終わると、傷ついた漢兵のうめき声の中、主だった将兵の首をいた。そのときにナオトの剣を使った。
 勝ちを喜び、我を忘れて百に余る死体をあさる匈奴兵の誰もが、敵将の首を斬り落とそうとするエレグゼンのただならぬ気配に振り向いた。そして、その音に驚いた。
 いつもならば、鈍い音をさせて骨を砕き、血を浴びながら二度三度と手鉾てぼこを打ち付けてき落とすところを、エレグゼンはすぱっと剣の一振りで斬り落としてみせた。噴き出した血がおさまって、斬り口を見た匈奴兵は、使う言葉がおかしいとは感じつつも、「きれいだ」と口を揃えた。
 同じようにしてエレグゼンは、散り散りに進むいくつもの漢の小隊を壊滅させた。その頃には、馬上で剣を振るうエレグゼンの姿は、メナヒムの千騎が遠目からでも見分けられるほどに全隊に知れ渡っていた。

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