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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[205] 終章 別れのとき

                           安達智彦 著 

【この章の主な登場人物】
ナオト ∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙ 海を越え、匈奴で数年暮らしたヒダカの青年。なお西を目指す
エレグゼン ∙∙∙∙∙∙∙ 匈奴ヒョンヌの戦士。優れた剣を作り上げたナオトを西に逃がす
メナヒム ∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙ 漢に対抗できるよう、鋼作りの完成を目指す匈奴の千騎隊長
バフティヤール ∙∙ メナヒムの子。鉄生産の秘密を守ろうとナオト暗殺を父に進言
バトゥ ∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙ メナヒムが信頼する古くからの戦友。ナオトの追っ手
ザヤ ∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙ 匈奴の娘、エレグゼンの従妹。ナオトを慕う
 
「終章 別れのとき」のあらすじ
 鉄を作るためのタタールの技を身に付け、これまでにないような鋭い切れ味をもつ鋼の剣をものにしたナオトの口から、匈奴の鋼作りがハン烏孫ウソンに漏れる恐れがある。生かしておくわけにはいかないと匈奴のうちで決したとき、気配を察したナオトはモンゴルの地を去り、さらに西を目指すと決めた。エレグゼンがそれを助けた。
 別れの朝、ザヤは、ただ一騎草原を行くナオトの背を見送った。
                     【以上、終章のあらすじ】
 
終章 別れのとき
第1節 ナオトの決意

[205] ■1話 望郷                   【BC90年7月】
 翌朝、エレグゼンとナオトは久しぶりに二人で遠駆けした。いつものように、エレグゼンがナオトのゲルの前で「おーい」と呼んだ。
 ケルレン川沿いに川床を東に行き、このまま行けばウリエルの家だというところで引き返して、川を南に渡った。

 岩に当たる水の音が遠くに聞こえてきたとき、ナオトを突然の郷愁が襲った。
 はじめは、何が起きたのかわからなかった。ただ、無性に、ヒダカの海が見たかった。母の顔と、海に出て戻らなかった父の顔が目の前に現れて、重なった。それはほんの一瞬のことだったが、しかし、二度と忘れることのない鮮烈な瞬間だった。
 その日は何ということはなく、ヒツジの群れをけながらエレグゼンを追って草原を駆け回り、営地に帰るといつも通りに牧場で別れを告げ、シルを引いて小川の岸まで行き、馬体を洗ってやるなどしてからゲルに戻った。
 だが、その後の二日間、その小川の水音が聞こえてきてはうつむき加減になり、夕陽を見ては涙するということが続いた。自分ではどうしようもなかった。ただ、ひとりでに泣けてくるのだ。
 その数日間、エレグゼンが見せた心配そうな表情を、後々、ナオトは何度も思い返した。最初は、からかうように「おい、どうした」などと言っていた。そのうちに、頼むよ、といった表情になり、ついには、もらい泣きするように、自分も涙を見せるようになった。
 口に出してナオトに伝える機会はついぞなかった。しかしエレグゼンはそのとき思い知った。
「ナオトは自分にとって大切な友であるだけではない。弟であり、父なのだ……」
 と。

 匈奴の左賢王の地位には、いつも、 匈奴ヒョンヌの王者である∙ 単于ゼンウおもだった縁者が就いた。いまの左賢王は単于の異母弟で、周りに推されて一度は就いた単于の地位を、兄の帰還を待って直ちに降りた人格者として知られていた。
 左賢王の配下にはいろいろな技芸の持ち主が集まっている。中には、星の動きを見る者、その者と一緒になって気象と草の育ちを占う者、乾かしたヒツジの腸をって木の箱に張った楽器をかなでる者、笛を吹く者、匈奴に伝わる医術を行う祈祷師、とくに選ばれて妃の安産をもっぱら祈願する祈祷師までいた。
 それらに加えるようにして、ニンシャ人のイシク親方サルトポウには特異な地位が与えられた。中でも、剣を作るナオトはいまや最も重要な工人たくみと数えられるようになっていた。しかし、奴隷であることに変わりはなく、いざとなれば命を取られるという気配が常に付きまとっていた。
 居延キョエン城北の追撃戦で大きな戦功を挙げたエレグゼンが、ヒツジの肉の大きな塊を持って山の端に現れたその日に、ナオトは匈奴を去ろうと決めた。エレグゼンとの遠駆けの後、その気持ちはいよいよ固まった。
 夜明け前のおぼつかない意識の中で、「ここにとどまっていてはならぬ」という父の声が聞こえた。
 馬乳酒を煮立てて蒸留したアルヒは、強いものになると少し口に含んだだけでのどが焼けるようになる。血糊ちのりを爪の間から落とし、血の臭いを心からぬぐい去るのにこれに勝る飲み物はない。
 匈奴の男は誰しも、大きな戦さの後にはこのアルヒのさかずきを何度も乾して、闘いの記憶を消し去ろうとする。酔いが回ると踊り出す者すらある。戦さから戻った直後の夏の牧地で、エレグゼンもそういう男たちの輪の中にあった。

 四本目の剣に取り掛かっていたナオトは、北の疎林からゲルに戻るといつも通りに食事をし、鉢の水で濡らした布で体を拭いて横になった。遠くで騒ぐ声が耳に届く。ナオトは、ハミルで買ってもらった塩袋を頭の下に当てて目をつぶった。
 春が去ったと気付く間もなく、ナオトがモンゴル高原に来てから三度目の夏が訪れた。高原の夏は短い。九月になれば人と畜獣は川向こうにある冬の牧地に移る。ナオトもまた、長かったこの牧地での日々を終え、この地を去る。
 しかし、ナオトがひそかに目指そうとしているのは南にある冬の牧地ではなかった。

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終章の目次 【各節の初めへ移動するためのリンク】
 終章1節 ナオトの決意 [205]の冒頭へ
 終章2節 メナヒムとヨーゼフの物語 [208] へ
 終章3節 ヨーゼフとメナヒムの再会 [211] へ
 終章4節 草原の別れ [215] へ

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