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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[211]ハミルのバザールにて

終章 別れのとき
第3節 ヨーゼフとメナヒムの再会

[211] ■1話 ハミルのバザールにて
 トゥバの家で最後に会ってから、長いときを経て、メナヒムはハミルのバザールで偶然にもヨーゼフと再会する。その事情をエレグゼンに語るために、メナヒムはまず、海を渡ってヒダカに向かった弟の無事をヨーゼフがどうやって知ったかを話すことにした。

 いまから二十年ほど前の秋の初め。
 モンゴル高原に住むヨーゼフは、海が氷に閉ざされる前にと、匈奴に運ぶ食糧などを仕入れにフヨの入り江まで出向いた。
 その入り江の南の岸で、それが最後になるとも知らずに、弟のダーリオと別れの挨拶を交わしてからすでに久しい。弟が残していった窯場でヨーゼフは、弟が海を越え、東に去ったと聞いていた。しかし、はたして無事にヒダカに着いたかどうかを知るすべはない。
 その入り江を訪れるとき、ヨーゼフはいつもその思いにとらわれる。
 しかし、このたびは少し違っていた。入り江に着いた翌朝、ダーリオからだという竹片に彫った便りをヒダカの舟長だという男が宿まで届けてくれた。消息がわからなくなっている弟からの初めての便りだった。
「無事に海を渡ってアマ国にいる」とはじまり、「人も、物も、ここは珍しいものばかりだ。しかし、箱を飾る石など、この国にないものも多い。バクトラが懐かしい。兄さんの無事を祈る」
 と結んでいた。
「生きていたか……!」
 と、ヨーゼフは声を上げて泣いた。

 フヨから匈奴に戻ったヨーゼフは、ダーリオが竹板の便りに刻んだ「この国にない」というものを探そうと、次の年の夏前に、もう来ることはないだろうと思っていたハミルのバザールを訪れた。
 金属以外のものを探してバザールを見て回るのはいつ以来か思い出せないほど久しぶりだった。いま、それとなく探しているのはアマの国にはないはずの珍しい色の石。短い便りに、ダーリオがわざわざ記したものだ。
 石ならば、海を渡るときに塩水で濡れても質は落ちない。前に訪れたハンの都で、ヒダカには硬い石を磨く優れた技があると聞いた。そのときは、ヒダカで磨いて海を渡ってきたというあかいサンゴの玉を珠玉しんじゅとともに見せてもらった。
 ――ヒダカ人が玻璃ハリでるのは知っている。ならば、ペルシャ人や匈奴が好む青や緑の石はどうだろう……。
 遠く離れたいま、何かしてやれることとてない。無事と知ったダーリオに、なんとかそうした石を届けてやりたいとヨーゼフは思った。
 ――ダーリオならばうまい使い途を考えるに違いない。しかし、便りの最後に書いてあった石で飾った箱とは何のことだろう?

 以前はこうだったと、ハミルの昔を懐かしく思い出しながら、バザールのそこここで耳にする、やかましいのに、しかしどこか快い言葉を聞き流しながら角を曲がろうとした。そのとき、突然、
「ヨーゼフ? ヨーゼフじゃあないですか?」
 と呼び止められた。思わず振り向いたが、それが誰なのか見覚えがない。そのような若い匈奴兵に知り合いはなかった。
「吾れです。メナヒムです。あそこにカーイもいます。おーい、カーイ……」
「おおっ、メナヒムか?」
 あの、トゥバまで旅したニンシャの子、メナヒムだった。
 ――すっかり、いい大人になって……。それにしても、身に着けているものはまるで匈奴の兵士ではないか……。
「どうした、その姿は?」
 十年前に母が亡くなってトゥバを去り、兄弟で匈奴の右賢王の部隊に加わった。そう言うメナヒムは、いまは十人隊を率いているという。 
「なんと……」
 言葉が出なかった。
「兄弟して匈奴兵に交じり、見よう見真似で弓を引いてトゥバのイノシシとクマを何頭か仕留めたら、弓矢がうまいと部隊に入れてくれました」
「そうか、お前たち、狩りをするようになったのか?」
 ヨーゼフは、どうにか続けるべき言葉を探した。
「はい……。このハミルで初めてお会いしたのは、もう二十年以上も前ですね」
「ああ、そうだな。早いな、ときが過ぎるのは。本当に早い……。隣りの大男は弟か?」
 笑いながらメナヒムが言った。
「弟のカーイです。カーイ、あのときのヨーゼフだ」
「お久しぶりです!」
「カーイはまだ幼かったから、わしを覚えてはいないだろうなぁ」
「もちろん覚えています。昔、このハミルの誰かの家で毎日、ダーリオと遊んだ……」
「そうか、ダーリオを覚えているか……」
「はい。いまはどうしてますか、ダーリオは?」
「ヒダカにいる。ダーリオは海を渡って、乳と蜜の流れる国まで行き着いたのだ」
「ヒダカ……?」
「フヨから、舟で海を越えた東の果ての国だ」
「……」
「……?」
「それにしても、なぜ二人してここにいる?」
「ここで別の十人隊を待って西の備えに回るところです。明日発ちます。今夜はここにお泊りですか?」
「ああ、あそこに見える宿ブーダルにいる」
「もし営地を出られたら、後で訪ねてみます!」

 偶然、バザールで再会したヨーゼフとメナヒムは、その夜、ハミルの宿で語り合った。あの日、六歳だったメナヒムは二十九歳になっていた。ヨーゼフは五十を回っている。
「わしは今でも思い出す。あのオヴス湖の西の乾いた土地で、先に行くと言ってお前たち親子と別れた。正面に見えている山並みに向かってしばらく歩いたところで、弟のダーリオがたまらず振り返った。あれは本当に、幼いお前たち兄弟を気にかけていた。子供好きだったからな。
 百人近い人々が思い思いの場所で休んでいた。その中に、わしらにすっかりなついていたお前が、両手をむすんで立ってじっとこちらをにらんでいるのが見えた……」
「ヨーゼフ、あのときのことは吾れもよく覚えています。睨んでいたなどということはありません。泣きそうになるのを、弟には見られたくないとこらえていたのです」
「そうか。そうだったか……。あれから二十年も経ったいまになって、ようやく、胸のつかえが取れた。ずっと気になっていた……」
「そうでしたか……」
「あのとき、お前たちの一団がそのあとにどれほど大変な目に遭うか、わしらにはわかっていた。ダーリオがわしの腕を引いて、『もう、二度と会えないかもしれないぞ。手を振ってやれ』と促した。その目は泣いていた。
 だが、わしはとてもだめだった。立ち止まってちらっと目をっただけで、すぐに先を急いだ。
 その後、ハカスでお前たち一家と出会うことはなかった。だが、死んではいないだろうと思っていた。きっとどこかで生きていると、兄弟で語り合った。何しろ、シーナからハミルまで無事に逃げ延びた一家だ。きっと、神がともに在る。
 確かにオオカミは怖いが、人の一団を襲うことなど滅多にない。ハカスまでの山道で死ぬとは考えにくい。きっとどこかで生きていると思っていた。
 トゥバの地でお前たち一家と再会したとき、やはり神はニンシャの人々を護っているとしみじみ思った」
「トゥバで再びお会いしたときのことは、れもよく覚えています。弟のカーイがダーリオに飛びついていた。私たち親子四人、喜びはみな同じでした。
 トゥバでの暮らしが長くなっても、母は父に、あのときヨーゼフはハミルでどんなものでも探して持ってきてくれたといつも話していました。
 父は信心深い男でした。私たち兄弟がタンヌオラの山中で父に最後の別れを告げるときまで、あなた方兄弟は神がつかわした使いだと信じていました。何しろ、なんのもないこのハミルで、突然、闇の中から現れたのですから……」
「そうか。あれは、このハミルだったな……。それで、その話しぶりからするとお父上も亡くなったのか?」
「はい。父と母はあのオヴス湖を見下ろす丘に眠っています」
「そうか……。二人ともまだまだこれからだったろうに」

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