『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[206]鋼の秘密を守る
終章 別れのとき
第1節 ナオトの決意
[206] ■2話 鋼の秘密を守る
そうしたナオトの心のうちを読んでいるかのように、バフティヤールは、火を囲んだ若者の集まりでも、山の端の鉄窯を訪れるときでも、いつもナオトの様子を窺っていた。
バフティヤールの実の父親は、昔あった烏孫との戦いでメナヒムを救おうとして命を落とした二人といない大事な手の者だった。そのためかメナヒムは、血のつながった弟の子のエレグゼンよりも、養子のバフティヤールに目を掛けた。
バフティヤールとエレグゼンはともにメナヒムの側にあったが、しかし、血か、それとも境遇のためか、二人は全く別の性格に育った。エレグゼンが日ならば、バフティヤールは月だった。どちらも輝いてはいるが、光り方は違った。
歳が近いナオトは、匈奴に着いてからずっと、思慮深げなバフティヤールの存在が気になっていた。
バフティヤールが鳥を飼うと聞いて、鳥狩りに同行した。エレグゼンに無理に誘わせて、三人連れ立って馬を競ったこともある。トゥバへの旅をともにして以来、バフティヤールとはどういう男なのだろうと、ナオトは折につけ思うようになった。
そのバフティヤールがナオトに対して抱く思いは、しかし、決して単純なものではなかった。
第一に、ひそかに思いを寄せてきたザヤが、いまはナオトに夢中になっている。兄と慕ってきたエレグゼンも、炭焼きといい、鉄窯作りといい、ナオトの言いなりになっているように見える。
この地での鉄剣作りに道を開いたいま、父メナヒムの信を強くしたようだ。部族の中にはナオトを重んじる者が数多くいる。
――そもそも、我ら一族とともに過ごすということ自体、部族の掟からは許されないことではないのか……?
鋼作りは匈奴の宿願だ。それをなぜ、ナオトのような他者に託したのだろう。単于までもがそれを認めたという。
そのナオトは、鋼作りと鉄剣作りをニンシャ人に引き継いだいま、我ら一族を離れようとしている。はっきりそうだとは言わないが、その臭いが周りに漂い出ていて、近くで過ごしていればすぐにわかる。少なくとも吾れにはわかる。
ナオトは、いまや、一人で鉄剣を作るまでになった。エレグゼンの剣をはじめとして、すでに何振りもものにしている。鉄剣作りの秘密はナオトとともにある。それはどこにも漏らすわけにはいかない。誰も、そのことを真剣に考えようとしない。
誰かがナオトを止めなければならない。いまは、匈奴の国の危機といっていい。ナオトが烏孫に行ったらどうなる。剣の作り方が父の仇の烏孫に知れてしまうではないか。誰が許そうとも、吾れは許さない。吾れが、ナオトを止めてみせる。
火の側で仲間が声を合わせて歌い、隣りに座るエレグゼンは静かに火を見つめている。
――しかし……、
と、バフティヤールは思う。
――たぶん、この部族の中にナオトほど吾れを理解する者はいない。吾れが何かを言い、何かをするときには、いつもナオトが見ている。あの鳥狩りのときからだ。ナオトが匈奴の鉄について初めて知らされた日だ。タンヌオラの北への旅のときもそうだった。
「昔、ここで大きな戦いがあった」
という話になると、じっと耳をそばだてて聞いている。
父のメナヒムが大きな岩について語り、この川は、冬、枯れるなどと言うと、なぜかは知らぬが吾れの方を見て、どう応えるかを窺っているようだった。
あの墓参りのときもそうだ。実父がどこでどういうふうに戦い、死んだのかを聞いて、自分のことのように考え込んでいた。
目印にする岩と、山と川と、地形の全体が戦いを左右するとナオトにはわかっている。あれほど戦いを厭う男は見たことがない。しかし、戦さについてあれほど深く知ろうとする者もいない。吾れを除いては……。
ナオトは、だから危険なのだ。父もエレグゼンも、それに気付いていない。そういう目をナオトに向けることがない……。
七月も半ばを過ぎて、草の丈がだいぶ伸びた頃に、メナヒムは、大きな部隊を初めて指揮した先の戦場を改めて見ておくことにした。
居延城の北からガシュン湖にかけての原では、これからも幾度となく漢との争いを繰り返すだろう。その地で大きな戦果を挙げることができたのは、地形と兵の配置がどうだったためかをエチナ川まで出張って詳しく調べておきたかった。敵将が採った退路も記録しておく。
それを、後に続く者たちに直に伝えるためにバフティヤールを連れ、バトゥを同行させた。その後ろを選りすぐった十騎の護衛が固めている。鉄窯の守りはエレグゼンに任せてきた。
東ボグド山の脇を抜けて南に進み、トストオーラの峰を越え、漢の居延城のすぐ北にあるあの戦いの地ガシュン湖まで足を延ばした。退却する漢の遠征軍を手ひどく叩いた場所だ。
バフティヤールはいましかないと心を決めて、かねてからの考えをメナヒムに話した。馬を進めながらバトゥも聞いている。
メナヒムの答えは思いがけないものだった。
「わしも同じことを考えていた。しかし、それではエレグゼンが納得すまい」
「いまは、匈奴の大事です」
バフティヤールはなおも言い募った。メナヒムがバトゥを見遣ると、静かに頷いた。
――鋼と鉄剣の秘密は守らなければならない。
「やはりそれしかないか……」
と、馬上で目を瞑ったメナヒムはこの先に取るべき道を決めた。
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