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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[215]終章4節1話 朝靄 

終章 別れのとき
第4節 草原の別れ

[215] ■1話 朝靄あさもや  
 昨日きのうまでの雨が草原の装いを変えた。丘と山を覆う緑は一気に深まり、強い日射しに輝いている。
 その朝、夏の牧地はモンゴル高原ではあまり見ないような深いもやに包まれていた。
 踏み跡を選んでナオトのゲルまで下りて行き、「おい、起きているか」と声を掛けた。いつも通りの張りのある声で「おおっ」と応じると、戸口のヒツジの皮をそっとめくってナオトが顔を見せた。
「行くか?」
 そう言ってエレグゼンは、戦さの疲れから回復した愛馬のゴウにまたがった。ナオトも続いた。
 ニンシャのイシク親方のもとに食糧を運ぶ。
「明日の朝、行こう」
 と、エレグゼンが昨日きのう言い出したのだった。

 家族とともに山のの土城近くに住むニンシャ人たちに渡す玄米コメをヘーベという運び具に入れ、ゴウの背に左右に振り分けて積んである。昼前には、目立たないようにと二隊に分けて、荷車が後を追う手筈になっていた。
 ナオトのゲルに向かい、また、戻って行った足跡のあることにエレグゼンは気付いていた。戦場から戻ってすぐに、まだ漢軍の脅威が消えてはいないからと、他から少し離してナオトのために新たに建てた小ぶりのゲルだった。
 雨の後の土は柔らかい。その上に、ぼんやりとしてはいても、見紛みまごうことのない跡が残っていた。
 ――大きさからすると女の長靴だ。何でも話すナオトが、そのことについては口を閉ざしたままでいる……。
 前夜、訪ねてきたのはザヤだった。
 夜更けに、かすかな鈴のが聞こえたような気がした。
 なぜか、いつもになく眠りの浅かったナオトが立って行って、「誰か?」と声を掛けると、ヒツジの皮の覆いをくぐってザヤが静かに中に入ってきた。ただ黙ってそこに立っている。薄暗がりの中、ナオトはどうしていいかわからず、そっとザヤの肩を抱いた。
 エレグゼンは、その他にも、いつもと違ういくつかを見逃さなかった。
 ナオトは、小川の水で口を漱がず、顔を洗わなかった。下りる坂が滑ると思ったのかもしれない。しかし知る限り、朝、口を漱がないナオトを見るのはごく稀だった。それに、馬で遠出するというのにヒダカを出て以来ずっと一緒に旅してきた背負子《しょいこ》を左肩にかけている。
 確かに、吾れたちは山の端のイシク親方のもとに行くことになっている。しかし、作り掛けの小刀なのか、親方のためにと土で作った器なのか、背負子で運ぶほどの荷があるのだろうか?

 ――ナオトは知っている!
 その考えが頭をかすめて、エレグゼンはひとつ身震いをした。

 ザヤは、今朝けさ、馬の出産を手伝うために夏の牧地の南の外れまで遠出することになっていた。それを、山の端の鉄窯に食糧を届けるエレグゼンとナオトが、途中まで見送る。これも、昨晩決まったことだ。
 朝日を左手に置いて二騎がゆったりと南に進んでいる。ザヤが追い付いてきて、何も言わずに並び掛けた。営地で朝の支度をはじめている者たちには、いつもの見慣れた光景だった。
 ――ナオトは西に行く。やがて戻るというのではない。そのまま立ち去るのだ。そうしなければ、父、メナヒムに殺されてしまう。きっとそうなる。
 ナオトが去る。もしかすると殺される。ザヤはそれを恐れた。
 しかしそのザヤも、まさか今日がその日とは思っていなかった。今晩、またナオトに会う。ザヤはそう心に決めていた。

 エレグゼンは、その朝、が東の峰を上に離れる頃合いに、ナオトを誘い出してあの西の岩山の頂上で刺し殺し、向こう側の谷に落として岩の間に隠すという手はずになっていた。メナヒムたちが居延キョエンから戻って来ると呼び出され、
「どうしても殺すというのならば自分の手で」
 と申し出てから六日っている。
 エレグゼンには知らされていなかったが、その朝、バトゥとメナヒムの配下四人が、遠巻きにナオトの動きを見張っていた。

 南と西とに分かれる目印の積石オボ―まで来ると、二人に声を掛け、ザヤは真っすぐに産馬がいる友のゲルへと向かった。ややしばらくザヤの後ろ姿を馬上で見送ってから、二人はそこで西に折れた。道々、鋼作りやナオトが作った三番目の剣のことなどを尋ねた。どれも、すでに話したことばかりだった。
 ナオトが首から下げた小袋に手を入れて干し肉を取り出し、エレグゼンに勧めた。受け取る前に馬を下り、ナオトがそれに倣った。降り続いた雨のためか、見た覚えがないほどのたけに育った草の原を、二人が手綱を片手にぶらぶらと西に向かう。それを遠巻きにした五人の男の目が追っていた。
 東に見える一番高い峰の脇からもうすぐ陽がのぞくというところで、エレグゼンが馬に飛び乗り、西に向かって駆け出した。その先にはあの岩山がある。
 何も知らないナオトが跨ると、馬銜はみを噛んでシルが促しているのを手綱に感じた。頸をぽんぽんと二度叩いて声を掛け、走り出した。
 先を行くエレグゼンに並び掛けると、シルがゴウの方に鼻面はなづらを振った。声を掛けずともわかっている。向かう先は、いつもは夕刻に、てっぺんに陽が掛かるまでとエレグゼンと競うあの小高い岩山だ。

 そのとき、その場にいた誰も予想していなかったことが起きた。メナヒムに言いつかって、南に馬の出産を手伝いに行ったはずのザヤが草原の窪地くぼちから突然現れ、二人の後を追いはじめたのだ。
 混乱は、まずメナヒムの配下に起きた。
 ――どうする。エレグゼンには任せずに、自分たちで始末しまつを付けるか。
 その混乱が、蹄の音に驚いて後ろを振り返ったエレグゼンに伝わった。
 ――なにぃ、ザヤではないか。どうする……?
 ナオトをどうやって逃せばいいのか、決心がつきかねていた。るしかないのか。エレグゼンの迷う気持ちはなおさら揺れた。
 しかし、闘う本能がかろうじてまさり、「負けるか!」と口にすると、一度は抜かれたナオトを全力で追走しはじめた。ゴウの脚は速い。このところ休んで馬体の大きさは戻った。エレグゼンの気持ちに応えてゴウはみるみるを詰めていった。
 ザヤはややもすると遅れそうになった。しかしこらえて、大きく離されずになんとか付いている。ザヤは必死だった。
 見張っていた五人の騎兵は安堵した。エレグゼンがザヤを振り切ってナオトを追う姿を見て、やっとその気になったと、そう考えたのだ。これらメナヒムの配下はみな、悟られないように気配を消して間合いを保ち、身を隠しながら後を追う。
 いつも競っている草原の路を行くナオトたちに比べて、草が深くてみちが定まらない分だけ、少しずつ遅れはじめた。

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