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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[214]エレグゼンの覚悟

終章 別れのとき
第3節 ヨーゼフとメナヒムの再会

[214] ■4話 エレグゼンの覚悟
「吾れがウリエルのところに預けられたのは、この仕組みのためだったのですか?」
「いや、はじめは違っていた。ヨーゼフの名前が出たとき、もし本当にわしの知るヨーゼフだったらお前を預けようと思い付いた。昔のえんから、ヨーゼフのもとで学ばせようと思ったのだ。深い考えはなかった。
 それに、そもそも、ヨーゼフとの取引はまだはじまっていなかった。しかし、いざはじめてみると、その大切さが身に染みてわかった。どうしても続けなければと思った。左賢王も同じ考えだった。そして、わしの後にこの役をやるのはお前しかいないと思った。お前が十三歳になった頃だ。
 匈奴を守るためという点では、鉄剣作りも同じだ。
 このわしの話で、お前の中で何かが変わるとは思わない。しかしエレグゼン、四日前にナオトについて決めたことは、匈奴を守るためだ。それはわかったもらいたい。
 いま、許せとお前に言うためには、いろいろ話しておかなければと思った。わしがいままでヨーゼフと力を合わせてやってきたことは、いずれは、お前とウリエルとドルジとで続けていくのだからな」
「ウリエルも事情を知っているのですか?」
「いや、詳しくは話していない。単に、『父のヨーゼフは、何か、匈奴と大きな取引をやっている』と思っているのではないか。
 ずっと前に匈奴までやって来たヨーゼフと話し合って取引の骨組みを決めたとき、その席にはウリエルもいた。だから、取引を行うのは薄革にソグド文字で書いた依頼文がウリエルを通してヨーゼフまで渡ったときのみだというのは知っている。しかし、そこに書き付けられる品が鋼と武器、食糧に限られるとは知らない」
「ヨーゼフがモンゴル高原までやって来たというのはいつ頃ですか?」
「もう十年になる。あのとき、お前もヨーゼフに会っただろう?」
「……いや、たぶんお会いしていません。吾れは夏の牧地に移っていたのでは?」
「そうか……。それに、黄金がウリエルのところやフヨまで運ばれることもない。金は真っ直ぐハミルに行く。だからウリエルは、大きな取引とは言っても多寡たかが知れていると思っているだろう。肝心の金を見ていないのだからな」
「そうした品々のあたいきんは、すべてハミルに運んでいるのですか?」
「ああ、そうだ。すべてだ。その相手は、四十年近く前にハミルまで逃げ延びたわしら一家を半年間匿ってくれたあの商人だ」
「いやぁ、そういう縁ですか……。その黄金を、ヨーゼフのところまでどうやって運ぶのだろう?」
きんは運び出さない。おそらくな……。ダーリオが無事に海を渡ってヒダカにいると知ったヨーゼフは、しばらく経つときんを欲しがらなくなった。ヨーゼフの心の中で何かが変わったのだろう。
 代わりに、そのきんと引き換えに手に入れるさまざまなものをハミルからフヨの入り江へと運ばせている。そのままヒダカまで行くものもある。なんと、乾いた道をラクダで運び、シーナの大きな川を海まで下って、そこのみなとから積み出すこともあるそうだ。あの漢の湊だぞ。
 クルトに聞いた話だが、最後には、ほとんどすべての荷がヒダカにいる弟の元に送られるという。なんでも、信頼できるヒダカの舟長ふなおさがいるのだそうだ。舟長というのは海を行き来する舟を操る者のことだ」 
「舟長……。しかし、なぜヒダカなのですか?」
「詳しくは知らない。だが、ハミルで会ったときにも、ウリエルの家で会ったときにも、ヨーゼフはヒダカで何かをはじめたダーリオを助けたい。助けなければという話をしていた……」
「ヒダカに何があるのでしょう……?」
「ヒダカか。あのナオトが生まれ育った地だな……」
「ウリエルは本当に何も知らないのでしょうか。フヨから運んでくる荷の意味も、ヒダカに送っている品物についても?」
「ウリエルは些細なことでも見逃さない男だ。わしとクルトが交わす話も聞いている。匈奴が漢との戦いを進めるために必要な物資の調達を、フヨにあってヨーゼフが助けていることにはもとより気付いているだろう。その量は別にしてな。いずれにせよ、そろそろすべてを話す頃合いだ。そのときは、お前にも同席してもらう。よいな」
「はい!」
 メナヒム伯父との長い話し合いが終わって、大きくうなづいて見せたものの、ナオトをどう扱うかについて、エレグゼンは別の手立てを考えていた。
 ――ソグド商人とひそかに通じて、いざというときには匈奴に不足の品々を東や西から運ぶ。それならば、ナオトもいつか同じことで役立つかもしれない。メナヒム伯父がそれに気付いていないはずがない……。
「エッレ、明日の朝は山の端にコメも届けよ」
 去り際にメナヒムは、ゲルの戸口で振り向き、言い忘れたというようにしてそう告げた。
「コメですか……? わかりました」
 ――なぜ、コメを? メナヒム叔父がこんなことまで細かに指示するのは初めてだ。もしや、ナオトに分けて持たせてやれということだろうか?
 エレグゼンの思いを察したかのように、メナヒムが続けた。
「イシクがかゆを喜んでいたと、以前、お前から聞いた。ずっと、それが気になっていた。イシクは大事な工人たくみだ。何しろ、いまでは、イシクたちが作る剣の数を月に二度は単于に伝えているほどだからな」
 ――エッレ、お前はきっとナオトにコメを分け与えるだろう。逃げ延びるには糧食がいるからな。それならば、それでよい。それに、ヨーゼフとは別に、ナオトも同じ役に立つのではと、お前も気付いただろう……。
「わかりました。そのように計らいます」

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