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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[190]メナヒム、李陵将軍に会う

第8章 風雲、急を告げる
第3節 オンギン川の戦い

[190] ■1話 メナヒム、李陵将軍に会う
 ほおに風が快い晩春、五月。
 夏の牧地への移動のすきを狙ったものか、沙漠ゴビの先、河北カホク河西カセイの両方面で動きがみられた。単于の王庭には漢の軍団の動静についてのしらせがしげくもたらされるようになった。

 左賢王の身辺を護る四十騎の隊長であるメナヒムは、戦場にあっては百騎隊を四つ束ねる。この四百騎は常に後詰ごづめに回り、弓に矢をつがえることなく戦場をあとにすることすらある。先駆けならばありつける捕獲物えものがほとんどなく、士気を保つのが難しい。
 兵の心根をよく知るメナヒムは、しかし、日頃から四人の百人隊長を励まして、これら騎兵の鍛錬を怠らなかった。
 この四百騎のうちの半数は、いざというときには左賢王とその家族を護りながら、メナヒムの指揮の下、北の湖バイガル、またはケルレン川上流の東の湖ダライ・ノールを目指すことになっている。残る半数は退路の各所で追っ手を迎え撃つ。
 選抜されて守備隊に集まった兵たちには、モンゴル高原の各地に仲間や知り合いがいる。このところ、各方面からいろいろな話が伝わってきて騒がしい。百人隊長もメナヒムのところまで出向くことが増えた。どの兵も、漢との衝突は近いと、ひしひしと感じていた。

 漢の居延キョエン城の北にあるガシュンノールを見下ろす右賢王の烽火台のろしだいから、漢兵数万が城を発し、すぐ北のトストオーラ山脈を越えようとしているとの報を受けて、いよいよ戦さがはじまるとなったとき、メナヒムは左賢王に、
「オンギン川で防衛戦となったときには、是非とも戦場に出していただきたい」
 と、願い出た。
 漢の将軍が指揮する六万の軍団は、居延の北に二列に連なる山脈をすでに越えた。岩と砂の山を避けながらさらに北へと進み、東ボグド山の北の麓に次々と兵が集まっている。
 東を指して進軍する気配だとする第二報が単于のもとに届き、それが全軍に伝わる。
 ――すると、漢の歩兵団が向かうのはやはりオンギン川。川向こうに現れるのは早くても八日後だろう……。

 このを使ってメナヒムは、単于の布陣を見ておこうと決めた。左賢王の許しを得て、若い騎兵に旗指物はたさしものを持たせ、北寄りに陣取る単于指揮下の部隊に赴いた。この機に、李陵リリョウ将軍が単于から呼び戻されたという噂も確かめたかった。
 匈奴内で王として遇されている漢の降将こうしょう李陵は、漢軍と戦う単于の陣の後詰ごづめ千数百騎の少し前に控えていた。何騎かが脇を固めている。漢の元将軍と名乗るかのような赤い旗標はたじるしを見るのは一昨年以来だった。メナヒムは、あのときのあまりに見事な用兵をいまでも忘れることができない。
 このたびも、同族をあやめることはできないと、将軍は剣を帯びず、弓矢を持たずに、単于の軍が展開する様子を眺めていた。しかし、そもそも、ボグド山まで陣を進めずにオンギン川――漢人の言う匈奴河――で待つという単于の采配さいはいも、実は、戦闘を前に漢の兵馬を疲れるだけ疲れさせておこうという李陵の献策けんさくかもしれなかった。

「李陵将軍……」
 メナヒムが右手から声を掛けて名前と来歴らいれきとを告げ、無沙汰ぶさたを詫びた。数名の従兵が何のことかわからないまま従い、引き下がり、控える。
 将軍は黙って会釈えしゃくした後に、抑揚を抑えた声で言った。
「これはこれは、お久しぶりです」
 ――わしの名前を覚えてはおられまい。しかし、顔には見覚えがおありだろう。
 メナヒムは、祖父の李廣将軍についての思い出話を李陵から直接聞いてみたかった。それから、遠い昔に自分は、黄河のほとり、鳳凰城を南に外れた地で李廣将軍が馬から下りる姿に接したことがあると、一言伝えたかった。前の戦場ではそういうがなかった。
 それを話のきっかけとして、メナヒムは、なによりも匈奴が使うボルドとシーナの鋼との比較を聞きたかった。
 将軍は、匈奴内の鉄の産地はわかっている。いま、多少の鋼を作っていることも知っているだろう。その匈奴の鋼の質は、シーナのエンの鋼と比べてどうか。使いみちごとにみてどうかと訊いてみたかった。できることならば、李陵が漢にいた十年前に漢で作っていた鉄と鋼の量はどれほどだったかを教えてもらいたかった。
 鋼を鍛えて作る鉄剣の数は、毎年、漢の郡国グンコク兵五十万を満たすほどなのか。漢の外の地から運んでいる鋼は東西合わせてどれほどか。西が多いのか、それとも北か?
 ――ハンの前の王朝を建てた王は、何よりもまず鉄の産地をおさえたと聞く。親の出自は胡人だと噂されるその王自身も、鉄を作るクニで生まれた。シーナの鋼について李陵将軍が知らぬはずはない……。
 しかしメナヒムは、厳しい李陵の横顔を見て、あきらめた。問うたところで、李陵が話してくれるとは到底考えられなかった。むしろ、匈奴の鉄の不足を教えるだけに終わる。

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