「花束みたいな恋をした」にエモ死した【ネタバレ・感想】
旦那がどうしても見たいと言うので、日曜の朝一から「花束みたいな恋をした」という映画を観た。
今回はこの映画について詳しく語りたいので、まだ観ていない方はそっとブラウザを閉じることを推奨する。
もちろんこの記事を見るなということではない。
観てから、是非戻ってきてほしい。またあとで、ね。
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この映画の存在はSNSで知っていたし、存在を知ると同時に、ある噂も耳にしていた。
"カップルで見に行ってはいけない"
その言葉から入ったため、隣にいる旦那の存在をソワソワと感じながら鑑賞する羽目になってしまった。
結論から言うと、私たち夫婦に亀裂は入っていない。
それどころか、旦那に対する想いが強くなったように思える。
ただ映画自体は、ものすごく、ものすごくエモいものであったことを報告しておこうと思う。
私はこの映画が好きだ。大好きだ。
なんなら今まで見た映画の中で1番といってもいいかもしれない。
もう1度見に行く計画を立てたし、小説まで買ってしまった。
そんな「花束みたいな恋をした」についての想いを自分の中に留めておくことが出来ず、こうして文章に発散しようとしているのだ。
「花束みたいな恋をした」は、2人が別れていることを示唆するシーンで始まる。
つまり、2人の思い出をたどるような構成で物語が進んでいくのだ。
別れると知りながら2人の恋路を見るのは、たまらなく辛かった。
2人が結ばれたときから泣いていたように思う。
2人の出会いは運命的だった。
終電間際に出会い、意気投合し、どんどん距離を縮めていく。
初めて会った日から気が合うことを確信していた2人。
交際を始めてからも、きっと2人は気の合うカップルと周りから思われていたのだろう。
別れる直前のシーンで2人は観覧車で話をする。
ここで繰り広げられた会話に衝撃を受けた。
麦は絹に連れられて行ったミイラ展で、ミイラを美しいという絹に引いていた。
そして絹は、麦が作ったガスタンクの映画に酷く退屈していたのだ。
2人は当時、ミイラ展にもガスタンクにも興味を持っていたように見えた。
しかし、恋した相手に合わせていただけだったのである。
もちろん気が合う部分はたくさんあったのだろう。
小説、音楽、お笑い。
しかし、2人は全ての部分に共感しあっていたわけではない。
合わせて、合わせて、なんとかやってきたのだ。
恋とはそういうものだと、ふと思い出した。
そういえば今までお付き合いしてきた男性と出会ったときも、そうだった。
共通点を見つけようと必死だったし、合わない部分もなんとか合わせようとした。
そうしてこの出会いを運命だと認識したかったのだ。
恋することに、なんとか理由をつけたかったのかもしれない。
麦と絹の共通点が少し減ったとして、だからといって2人は別れるべきだったのだろうか。
確かに2人はすれ違っていた。
それでも生活の中に優しさはたくさんあったのではないか。
言い合っても、すれ違っても、2人は互いに優しく接することをやめなかった。
それなのに別れを選んだ2人に、ひどく心を痛めた。
これがリアルなのかもしれない。
あと一歩。2人が一緒に居る道を選ぶには、あと一歩だったのに。
麦と絹は、飼っていた猫をどちらが引き取るかじゃんけんで決めようとする。
麦はパーで絹はグーを出した。
出会ったころ、麦と絹は言っていた。
じゃんけんの内容に納得ができない。紙が石に勝つわけがない、と。
しかし今の麦は、何のためらいもなくパーを出す。
なぜパーを出したのかと問う絹に対し、麦は「大人だからね」と言った。
麦は大人になった。理不尽なことも黙って飲み込む、大人になったのだ。
大人になることが良いこととも悪いこととも思わない。
ただ、麦だけが大人になった。それが2人の結末なのであろう。
劇中で印象的だったのは、麦が花の名前を聞くシーン。
絹は「付き合っている女性に花の名前を教わると、別れた後も花を見て思い出してしまうらしい」と言って教えなかった。
その言葉は、きっとタイトルにも繋がっている。
「花束みたいな恋をした」
2人はこれまでたくさんの思い出を共有してきた。
押井守、ガスタンク、ミイラ展、多摩川、今村夏子……
そのどれを見ても、2人は互いを思い出す。
1つ1つが花となり、束となり、いつになっても思い出してしまうような恋を経験したのではないだろうか。
とても悲しい結末だったけれど、それを悲しみだけで描かないところがこの映画の素晴らしさだ。
この感情を「エモい」と言わず、何と言おう。
知らないカップルの過去を覗いているようでもあり、自分の過去を顧みているようでもあった。
悲しいのになんだか温かい、懐かしい物語を見させていただいた。
"カップルで見に行ってはいけない"と言われるのも理解できる。
今はどれだけ仲が良くとも、いずれ何かをきっかけにすれ違う。
愛がなくなり、肌を合わせることもなくなり、いずれ別れを選ぶときがくる。
そうした不安を植え付けてしまうのかもしれない。
また、今少しでも「別れる」という選択を考えていたのだとしたら、このエモさに便乗してつい別れを切り出してしまいそうだ。
ただ私は、隣にいる旦那がとても愛おしくなった。
麦と絹が過ごした時間ほど、私たち2人は生活を共にしていない。
付き合った日から数えても、まだ2年も経っていないのだから。
それでも私は、彼と合わないことを重々に承知している。
すでに合わない部分を受け入れた上で、一緒になったのだ。
違いを受け入れた私たちは、強く生きていけるのではないかと、映画を観てさらに絆が深まったように思う。
はあ、エモい。
エモいという言葉は、感情を言葉にできないときの逃げのようなものだと思っていた。
けれども私の中に、確固として「エモい」という感情が芽生えている。
この感情を探るため、もう1度劇場に足を運んで来ようと思う。
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