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【短編空洞小説】1_ドーナツの円周を疾走する4月について

コーヒーでも飲もうとリビングに下りたら、テーブルに書類が散乱していた。
「環境調査簿」「結核調査」「通学路確認のお願い」「肖像権承諾書」…

春は学校からの調査や提出プリントが多い。

「昨年度から変更の場合は、朱筆にて訂正をお願いいたします」

子供たちの新しい学年とクラス、担任名はすでに追加され、あるべきところに整列している。ダイニングテーブルはそこだけステージのように照らされて、昨年のわたしのクセ字はいつもより華々しく汚い。

「緊急連絡先はお子様の事故等場合、必ず連絡が取れるものをお願いします。また、勤務先が変更の場合は訂正をお願いします。」

「勤務先:〇〇高校 職業:教諭」
ちがうんだよな。
付箋をめくり、赤ペンで「小説家」と書いて、「教諭」の上に貼り付けた。

私の仕事は「小説家」だ。
小説は書いていないけど。
本も出してないけど。

人には生涯でなすべきことがあると、常に思っている。
人生の宿題や命題のような。
通奏低音のように、何をしていても生活の基底に流れるもの。
私にとってはそれが「小説を書くこと」だ。

では早く書けばよい。
いや、まだ書かない。
その時ではないのだ。
私は自分が書くべき小説の扉が開くのを、その周りをぐるぐる走りながら待っている。

もう一度上から強く押し、提出用封筒へ入れる。
中で付箋がかすかな音を立てた。



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