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むかしから、不思議だったこと

ずっと小さかったころから、不思議なことがあった。 face to faceで会っていると本当に良い人だな。と思うのに、それが束になった瞬間に豹変する人。その瞬間を見るたびに、この人はいったいどっちが本当の顔なんだろう?と感じることが多かった。それよりも哀しかったのかも。

それが同調圧力っていうものだと知ったのは、もう少し自分が大人に近づいてからだったけど、間違いなく自分もその環の中に囚われざるを得なかった。自分が気付かないあいだに心のバビロン捕囚は行われていた。

顔を突き合わせて話していたことが急に変わることもある。電話で話していたことが変わる。そんなことは日常茶飯事のように起こることがあると知ったのは、自分がまだまだ社会を知らないころだった。

それから僕はいっそう電話嫌いになった。必ず形が残るものを第一にするようになった。同調圧力を掛けがちな人は、形に残るものを嫌う傾向が強い。同調圧力を掛けるのに、周りからの見てくれを気にするのって何? ということをいつも思わずにはいられなかった。

同調圧力に従いたくないのに、従わないといけない、いかにも日本人らしい日本人をやらないといけなかったのは、ひとことで言えば「怖さ」でしかなかった。その「怖さ」はどこから来るのかといえば、そこにある「暴力性」が「怖い」のだ。物理的な力を背景にするような行為が本当に苦手で、そういう行為に及ぶ人には極力近づきたくないのに、近くにいるとき、無条件に抵抗することもなく、そこに従わないといけない状況が苦痛でしかなかった。

小さい頃からずっと同調圧力への「怖さ」をずっと持っている結果、極度に空気を読んでしまいがちな身体性を持ってしまった。今はそこからのリハビリ過程の途中のような状況で、少しずつそこから脱していけているような気がする。気がしているだけかも知れないけれど。

阿吽の呼吸と同調圧力は全く異なるものだけれど、「わかるでしょ?」という言葉には、阿吽の呼吸感を出してくるのが憎たらしい。

小さい頃から本当に欲しかったのは「対等な関係」だった。のかも知れない。腕っぷしの強い人への憧れなど毛頭なく、常に怖さを抱えて生きてきた気がする。声の大きな人も怖かった。そういう意味でずっと「怖さ」を抱えている。

だからずっと不思議なんだ。束になった瞬間、変わってしまう対等だった関係の脆さが。でもそれを受け入れなければやっていけないことも、現実的にはあって、それを割り切れるようになったのが大人になった。ということなのかも知れない。


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