じぶんとはちがう考え方を知ってみた。不安や苦しさの理由は、じぶんの考え方かも。

夫と暮らし始めて、知らなかった考え方に触れた。

考え方のギャップは、なんでもない日常の中にひそんでいた。

その経緯を書きたい。

夫は、おなかがすくと、テンションが下がり、声が低くなる。
その姿を見て、わたしはパニックを起こした。
「なにが気に入らなかったの?」「気に入らないならはっきり言って?!」と問い詰める私。
「いきなり何?」「気に入らないことなんてないよ」とけげんな表情を浮かべる夫。
そのけげんな表情がさらにわたしを不安にさせる。
「言わずに分かれってことか」「まったく分からないわたしは無能なのか」
そんな思いが、まっくろな墨のようにこころに広がる。

つい半年前までのよくある光景だった。
私自身の考え方や知っている対処法がまったく通用しないと思い知らされた。

夫と暮らし始めた時、しばらくは理解できない世界に飛び込んだ気分だった。
でも少しずつ、考え方がちがうのだと気がついた。

家族や家庭というものに対して、わたしはずっと「ちゃんとしないと」と思い続けてきた。

「ちゃんとした料理を作らないとこの家に私の居場所はない」
「ちゃんとできないやつは、そのうち必要なくなる」
「してほしいことをしてくれる都合のいい存在でいないと、なんのためにここにいるのか分からない」
「わたしに望んでいることをちゃんとできてないから、当てつけのような行動をされる」

そう信じてきたのに、夫との家庭はそのパターンにまったく当てはまらなかった。

ちゃんとした料理を作らなくても、「そういう時もあるよね」「仕方ないよ」と言われて終わる。
「疲れてるならムリしなくていいよ」「そんなことで、いらないとか言わないよ」
「なんのためにって、メリットがないとだめなの?」
「べつに当てつけしようとかなにも思ってないよ」

理解できなかった。
予想があまりにも当たらないと自分がおかしいのかと思えてくる。実際におかしかったのだけど。
理解できなすぎる状況は怖かった。
分からない方がおかしいのは、自覚してる。でも、それ以外知らなかった。

ひとり暮らしも、友達といる時間も、この考え方は適応されない。自然体でいられる。夫が、彼氏の間は気にならなかった。
じぶんにとって家庭が、嫌な思い出とゆがんだ考えにまみれた概念だったと、結婚してから気がついた。
そんな日々を繰り返すうち、自分の考え方が自分をしばりつけていることに気がついた。
実家を離れて、ふつう育ちの夫を暮らして、はじめて気がついたことがある。
実家では、わたしの予想がすべて当たっていた。そして、当たったからこそ考え方が強化されてきたと分かった。

「ちゃんとした家事をしないと家から追い出されてきた。」
「ちゃんとした料理を作らないとずっと文句を言いながら食べられた。」
「母のしてほしいことをしないと、攻撃されて家から出された。」
「望むとおりに動かないと父は当てつけのようにドアを強く締め、ふすまを殴って穴をあけた。」

どんどん予想がうまくなって、中学生になる頃には、ほとんど予想りだった。追い出されるなと思った時には、先回りして家の外に本や財布を置いていたくらいだ。

自分とちがう考え方を知るのはつらい。夫を通して、ふつうの親はこうするんだと分かって、改めてつらかった。
自分はそういう風に扱われなかったと認めることだから。

でも、知れて良かったと心から思う。
いまは、夫の考え方のほうが、自分も夫もすごく楽だってちゃんとわかる。

ほとんどの人は、自分の考え方しか知らないだろう。
持ち続けてきた考え方は、奥深くまでしみついていて、かんたんには取れない。

それが自分に合っていてしんどくないなら、持ち続けていけばいい。歳を重ねるごとに確固たる価値観に成長して、その人らしさになっていく。そんな太い木のような価値観を持った人に憧れる。

でも、もしも自分の考え方でしんどくなっているとしたら。
自分を追い込んでいることに気がつけたなら。
まだ理解していく途中だけど、経験から伝えたい。
「自分の考え方とは大きく違うものもあるよ」「あるって知るだけで、ちょっと気が楽になるかもしれないよ」。

心の調子が悪いときに受け入れるのは、まだ難しいけど、ひとまずスタートラインに立った気分だ。
道のりは長い。でも、スタートラインで吸う空気はすがすがしい。

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