見出し画像

「天才」の呪い

「天才」なんて単語とは、普通、そんなに縁があるものじゃない。

私もそうだ。
大学院の博士課程にくると、「天才かよ」と思う人には結構会う。
でも、私自身は、ちっとも天才なんかじゃない。「天才かよ」と言いたくなるような周りの人たちを前に、脳内でハンカチをキィと噛みながら、日々を過ごしている。

(おまけに、「天才かよ」と思った人よりも、さらに天才的な人が現れて、世の中の広さと途方もなさを感じたりもする)

そんな私だが、人生で一度だけ、「天才」と言われたことがある

学業についてではない。
「日本語でのアナウンスにおける、語尾の処理の仕方」という、よくわからない細かすぎる点において、「天才的」と称されたのだ。

大学に入学してすぐの頃。これといって就きたい職業も見当たらなかった私は、「暇だ」と「面白そう」という理由で、NHKのアナウンス教室を訪れた。

アナウンサーになりたいという気持ちは特になく。
高校時代の演劇部で、アナウンサーや記者の役をやったことがあったから、なんとなく親近感があったのだった。おしゃべりも好きだったしね。

そんな「なんとなーく」な理由で訪れたアナウンス教室で、元NHKアナウンサーの講師の方から、前述のような才能を発掘されたのだった。

「日本語の語尾の処理が、天才的」

「〜〜〜ます」「〜〜〜ました」「〜〜〜です」といった、文の最後の言い方に、どうやら私は才能があるらしい。

全く意味がわからなかった。

「終え方がすばらしい!」
「音程の下げ方がすばらしい!」
「長年アナウンスしてきた私でもできないよ!」

ぽかーんである。褒められているのに、ぽかーんである。
人から、しかもその道のプロから、「天才だ!」と言われた。でも、ぽかーん。

なんにも意識していないのに、
なんの努力もしていないのに、
ただただ普通にしゃべっただけなのに、称賛される。

意味がわからない。
なるほど、この本人にとって意味不明に称賛されることこそが才能ということなのだろうか。
でも欲を言えば、こんな細かいことじゃなく、もっと大きな才能が欲しかったぞ。頭脳とか、運動神経とか、顔面の美しさとかスタイルとか……

なんてことを思いつつ、でもまあ悪い気はしなかった。

が、すぐに苦悩にさいなまれることになる。

変に意識するようになってしまい、うまく話せなくなったのだ。

努力や工夫の末に評価されたものだったら、よりどころにできる蓄積がある。
でも、ド素人が無意識に話したことが評価されてしまうと、もう何をよりどころにしたらいいのか、わからない。

意識した瞬間、「あれ、どうやって話していたんだっけ」と混乱してしまう。

「うまく話そう」と意気込むほど、ダメになっていく。
(noteも同じく、「うまく書こう」とするほど、ダメだということを痛切に感じている)

「天才」という言葉が、プレッシャーとなっていった。
「うまく話せないといけない」という呪いに、しばられていった。


それでもなお、いくらかのセンスは人よりもあるようで、評価されていた。

けれど私自身は、褒められるとダメになる性格も相まって、すっかり萎えてしまった。
この葛藤を乗り越えようと奮闘するほどの情熱は、「話すこと」にはなかったようだ。


好きだけど、楽しいけれど、でも”職業”としてやっていくことではないなあ。
好き勝手に話したいなあ。


そうした紆余曲折を経て、いま私は、アナウンサーとは全然違う、大学院生をやっている。

「天才」のまま、過ごすことができていたら。
才能を指摘されたが故の、うまくいかなさに対処できていたら。

きっと全然違う人生を歩んでいたのだろう。

もしかしたら、いまよりずっと簡単に人から評価されて、お給料だってたくさんもらえて、ずっとずっと安定した生活と精神衛生を手に入れられたのかもしれない。もしかしたら!芸能人やプロ野球選手と結婚できたかもしれない!(それはない)


でも、私は、不器用で褒めに弱い私をそこまで嫌いじゃない。
もっと器用にいたいし、褒められて伸びるタイプを羨ましく思ったりもするし、いまの環境よりも向いているところは他にあるよなあ〜〜と思うときもあるけれど。

総体として、いまの選択に後悔もなければ、いまの自分を嫌いでもない。

授業についていけず、毎日学校のトイレで泣いていた修士時代もあった。「大学院なんて向いてない」と毎日のように母親に言われ、やめようかと何度も思った。
たったの3ヶ月前には、うつ状態もどきにもなった。でも、周りの人たちのおかげで、結構あっけなく戻ってきた。
なんだかんだ、少しずつできることが増えていった。

いま、私の先天的な「才能」を直接的に生かすことはできていない。
その代わり、”不利な状況でも諦めない”という私の性格は十分に発揮できている。

この性格だって、きっと「才能」だ(と思いたい)。
そしてこの「才能」は、これまでの26年間という人生の蓄積に裏打ちされたもの。よりどころのある、才能だ。

「語尾の処理」という、類稀ないものの裏付けもない才能よりも、裏付けのあるこちらの才能の方が、私にとってはずっとずっと価値がある。

「天才」という言葉の呪いに、あっさり負けてしまった私だけれど、それでよかったのだ、と思っている。


もしも、サポートしたいと思っていただけたなら。「サポートする」のボタンを押す指を引っ込めて、一番大切な人や、身の回りでしんどそうにしている人の顔を思い浮かべてください。 そして、私へのサポートのお金の分、その人たちに些細なプレゼントをしてあげてください。