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どうして”叩く”じゃだめなの? 【適切な声を、広く世の中に届けるために】

専門家じゃないのに口を挟んで、変なこと・不適切なこと、言う人がいる。
ーーそういう人たちを叩いて燃やして、それで本当に解決するのかな?

***

昨日、こんな記事を投稿した。

その後、ありがたいことに感想やコメントを複数いただいた。
そのうちのお一人とのやり取りの中で、改めて「あれ、私の前提となっている世界観って、ちょっとみんなと違うらしいぞ?」と気づいた。前回の記事では、それがうまく伝わっていないかもしれない。

だから、補足の説明記事を書かせてください。
昨日の記事を読んだ人、ちょっとくどくなってごめんなさい。昨日の記事読んでいないって人は、この記事だけ目を通すでもOKです。

前回の記事の要約
・(学問的な話題に関して、)適切な情報をわかりやすく流している専門家がいる一方で、不適切な情報を流す非専門家もいる。
・混乱の最中において、不適切な情報を流す人(非専門家)は、人々が適切な情報を得る妨げとなる。
・かと言って、そうしたエセ専門家を”責める”だけじゃ、問題の解決につながらない。
・責める代わりに、「エセ専門家が情報を発信する気力(インセンティブ)をなくそう」。

・そのために、研究者や博士課程生は、「この情報は専門家の適したものですよ!」と紹介し、あふれる無数の情報をふるいにかけるお手伝いができるんじゃないか。(そう思ったから、私、やってみたよ

→今回は、この要約の中の太字部分、「なんで責めるんじゃだめなのか」と「なんでインセンティブ云々の話になるのか」について、詳しくお話しさせてください。

このお話しは、私が博士課程の学生として学んでいる、経済学の考え方に深く根差しています。

根底にあるのは、「人々はいつだって”合理的に”行動する」という考え方です。

ここで言う”合理的”は、よく人がイメージする”賢い”という意味とは、ちょっと違います。
”利”(金銭的なものに限らず、”嬉しいこと”)が得られる状況では、その利を得るための行動を取るそんな姿勢を、”合理的”だと言っています。


もしも、誰も”適した情報”がどれかわからなかったら

混乱した世の中で、みんな、その物事にふさわしい、適した情報が欲しい。

けれど、あふれかえる情報の中で、どれが”適した”ものなのか、わからない。
わからないけれど、この状況がどんな状況なのかすら、わからないのは苦しい。誰か、説明して欲しい。「なるほど」って納得して、安心したい。

そんなとき、なにかしらの”それっぽい”説明や情報を提供したら、人々から褒められる。「すごい!なるほど!ありがとう!」って称賛される。その情報を売ったら、お金だって稼げる。それがどんなに”不適切な”情報だったとしても。

重ね重ね、誰も、その情報が”適切か”わからないのだ。
人々が馬鹿だって言いたいんじゃない。誰も、専門外のことはわからない。当然だ。
わからないからこそ、情報を得て、「なるほど、いまこんな状況なのか」と納得して、安心したいのだ。偉そうにつらつら書いてる私だって、そうだよ。

だから、”それっぽい”情報は何でも欲しちゃう。「なるほど」って表面的な納得を得られる情報であれば、なんでも頷いちゃう。そういう可能性がある。
堅い言葉で言ったら、どんな情報でも”需要”されうる。こんなとき、情報を発信する側、”供給側”はどんなことを考えるだろう。

「なるべくコストを低くして、供給してやろう」

そんなことを思う余地は、当然、ある。”利”が得られるのだから。

適した情報を提供するためには、本来は専門知識を持たないといけない。
そのためには当然、たくさん勉強しないといけない。本を買ったりするお金もかかる。時間もかかる。”コスト”がすごくかかるのだ。

けれど、どんな情報でも”需要”されうるのだとしたら。
そんなコストかけなくたって、適当に”それっぽい”こと言っていれば、それで儲かる。

だから、不適切なことを安易に言う”エセ専門家”が出てくる余地がある。
その”エセ専門家”の姿勢は、道徳的にはよくないのかもしれないけれど、とても理にかなっている。合理的な考えで、そんなことをしてもおかしくはない。

だって、楽して儲かるんだもん。褒められるんだもん。私だって、できるなら、楽して儲けて褒められたいよう。

じゃあ、叩いて”制裁”を下すのはどうだろう?

そんな状況で、不適切な情報を流す人をなくすにはどうしたらいいか。

一つの案が、「不適切な情報を流すと、痛い目に遭う」と認識させることが挙げられる。叩くとか、炎上とか、ね。

この案に対して、思うことは2つ。
個人的にすんごく好きじゃないから嫌だということと、それでは問題は解決しないから嫌だということ。

前者については、きっと、多くの人が思うこととそう大差ない。
やっぱり、人が人を裁いて、制裁を下すのは、道徳的によくない気がする。恐怖で人を制御しようとするのは、やっぱり違うと思う。

叩くのではなく、専門家やそれに準ずる知識を持った人たちが、冷静に指摘をし、「ここ違いますよ」と正してあげる。これは大事だと思う。

そうすると、その訂正を見た人が、「なるほど!本当はこういうことだったのね!」と納得してくれる(だろう)。不適切な知識が広まるのを防ぐことができる。
そうしてエセ専門家に対しても、本当の適した情報を教えてあげることができる。(きっと学びにつながると思うんだ)

けれど、”叩き”であっても、冷静な指摘であっても、それだけでは解決が難しい理由がある。後者の「それだけでは問題は解決しない」の説明をしよう。

一般に、専門知識を持った人は、すごく少ない
不適切なことを言っている人がいたとしても、「おかしい」って判断できる人がすごく少ない。

ということは、必ず”見逃し”が生じうる。物事を判断する目が、追いつかない。

「バレなきゃ良くね?」

そんな気持ちで、不正確なことを安易に言う人が出てきてしまう可能性がある。

叩く力が優しかろうと激しかろうと、もぐらたたきを延々するのは、疲れるだけ。だから、もぐらを減らすことを考えよう。

情報を供給するコストを上げて、不適切な情報を流せなくしよう

もしも、皆が「適した情報を発信している専門家」が誰かわかっていて、その情報しか欲しないのだとしたら。
安易に不適切なことを言う人は、きっと、いなくなる。だって、褒めてもらえないし、買ってもらえないのだもの。

「専門家の情報しかいらないよ!」「その件はXX先生がわかりやすく説明してくれたから、もういらないよ!」

そんな社会だったら、”エセ専門家”に残された道は2つ。
コストをかけて頑張って勉強して、れっきとした”専門家”になるか、不適切な情報を流すことをやめるか。どちらかのはず。

学問の話は専門家しかしちゃ”いけない”とは、言わない。
けれど、みんなが混乱している最中に、自身の発言が与えうる影響すらも考えず、自身の発言の”適切さ”も熟慮することなく、情報を落とす。その結果、さらなる混乱につながる可能性があるのは、よろしくないと私は思う。

そうした混乱をなくすためにも、(学問的な事項については)各分野の研究者や博士課程の学生が「誰が適した情報を流しているのか」を広めることが大事

もちろん、責任が伴うことではあるから、自身の判断の目になるべく狂いがないよう、注意しないといけない。そうして、自身の発言がどう人に影響しうるか、できる限りよくよく考えた上で、発信する必要がある。

細かな話として。
大学院生の中の博士課程生に限定している(=修士課程生を入れていない)のは、個人的経験や周囲を見ていて、まだまだこの判断に要する学問的知識の蓄積が足りていないことが多いのではないかと思うためです。その意味で、(私を含む)博士課程生に対して、いささかの信用を置いています。
けれど、個人的には、まだ”学生”である博士課程生は、自論を語るのではなく、あくまで信頼できる記事の”紹介”という形で、情報をふるいにかけるお手伝いをするべきなのかなと思っています。

人によって程度が大きく異なる「倫理観」に頼らずに、社会をよりよくする

経済学の良さは、こうしたことが考えられることなんじゃないかなと思う。

倫理観や思いやりは、尊いもの。
きっと、誰だって持っていると信じてる。けれど、その大きさは、人によって異なる。個々の倫理観に頼ることには、限界があると思う。

自分の”利”のためになる行動を、ついつい取ってしまう。
倫理観のかたわらに、そんな人間の性があるのだと思う。誰にでも、いつだって。

「じゃあそんな性を持った人の集まりであっても、より良い社会にするにはどうしたらいいのだろう」

そうやって、倫理観と”合理性”を分け、人間の合理的な行動を考えた上で、より良い社会の実現を考える。

そんな力がある学問が、経済学なのだと、ひよっこ大学院生ながら思っている。

***

昨日も書いたけれど、いつだって、専門家の意見が正しいとは、言わない。

でも、「学問的な見方で物事を語る」において、研究者や学者の右に出るものはいないはずだ。それでご飯食べているのは、研究者であり、学者なのだから。

だから、学問を職業にしている人たちと、それを目指している博士課程生は、その”適した見方”を世の中に広げるお手伝いができるんじゃないかな。

もちろん、自分の専門の範囲内で。自分が情報を流したり紹介することで、「人々にどんな”影響”を与えうるのか」を、難しいけれどなるべく頑張って正しく認識した上で、ね。

私一人でやっていたんじゃ、なかなか変わりはしないかもしれないけれど。

学問の世界で専門知識を持つ、それぞれの研究者や博士課程生が、ちょっとだけでも情報をふるいにかけるお手伝いをしていけば、少しずつでも世界は変わるのかもしれないなあ、なんて思っています。


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