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私たちの性と生

出産してから、自分の中の女性性が明らかに強くなってきたことを実感する。

昔、何かの媒体で女性作家たちが小説について話し合うというような特集で〝男性作家が描く女性像”について、全くなってない、男の理想をすべて表に貼り付けたようなあんな女はいない、そして出てくる男たちはみんな大体カッコつけてる、という酷評を繰り広げていて大変面白く読んではいたのだけどその頃は「とは言っても小説だし、面白ければいいのでは?」とあまり共感はできなかった。
が、しかし、歳をとる度にじわじわと、そして出産してからはあの時の話に納得している自分がいる。

私たちを苦しめる〝女はこうあるべき〟という女性像を作っているのは一体誰なのか。

最近、大河ドラマの「光る君へ」を見ていて、当時の女性を取り巻く状況と、そしてそれが現在も大して変わってはいないことに驚き、暗い気持ちになりながらも、脚本家の先生の強い信念を感じている。(ドラマもとても面白い!)

近年は女性作家が、過去に受けた性被害や、自身が女性であるということだけで受ける理不尽な扱い、について積極的に書いて発表するようになった。それらの書物で彼女たちが自身の心と向き合い丁寧に分析し言葉を紡いでくれたおかげで、私もだいぶ自分自身を取り戻せてきている。

「私の身体を生きる」
複数の女性作家が性について書くエッセイ。今生きづらさを感じている女性はなぜそう感じているのか紐解く一節が見つかるかもしれない。

私の周りにも、随分と拗らせていて、生きづらそうに感じる女性たちがいた。周りが「あなたは充分に魅力的だ」とどれほど言っても全く響くことはなく、外見も内面もパーフェクトなパートナーを隣に携えることでしか自分自身を肯定することが出来ないと思い込み、恋愛に苦戦していた。彼女たちがなぜそこまで自分に自信がなく、追い込んでしまうのかが私にはわからなかった。しかしそれが過去に身近な誰かからかけられた言葉が呪いになってしまった結果だと気づいたのはだいぶ後のことだった。あの時の私は彼女たちの行動を否定することしかできなかった。せめて、私を救ったような言葉が書かれた本を差し出せたらどんなに良かったかと心底思う。

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高校生の時に、「ハシモト」と名乗る男から電話がかかってきたことがあった。母が出て、男の子からだよ、と私に代わった。私は女子校に通っていたので異性から連絡がくるということは皆無だった。中学の時の友達だろうか、と思って出ると、電話の主はこもるような声で淡々と話した。

「あなたの裸の写真を持っている。購入しないとばら撒く」

今であればハッタリだということぐらいわかるが、当時世間知らずの田舎の高校生だった私は震える手で受話器を持ち直し、いくら出せば買えるのか、ということを聞いた。体で払ってほしい、と男は言った。私はショックで泣きながら電話を切り、母親に今起きたことをしゃくりあげながら話した。あなたをからかったんでしょ、と言った母の声は冷たかった。そうだよね、と言ってよろよろと洗面所に行き、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を洗っているとまた母が近づいてきて言った。

「そういうこと、されるようなことをしたの?」

今思い出しても非常に辛い出来事である。私は、母は心配している気持ちを私を責めることでしか表現できない人だったのでそうなってしまったのだとずっと思っていた。しかし、この社会全体で、性被害を受けた女性側にも原因があると責められる現象は今も日常茶飯事に起きている。母の言動もそういった社会に長年洗脳され続けた結果なのだろう。被害者でありながら叩かれる風潮を感じ取るたびにこの国にこびりついた男尊女卑の根深さにため息が出る。そして被害者の女性を自業自得だと責め立てるのは男性だけでなく女性もなのであって、かくいう私も長年そういう考えを無意識のうちに持ち合わせていたのだった。

「こういうことをされるのはあなた自身にも原因がある」

同じ女性である母親からそういう言葉を告げられたことで、悲しい以上になぜかすごく恥ずかしかった。私の存在自体が卑しく恥ずかしいものである、という風に思えて仕方がなく、更には私以外のほかの女性たちのことも同じように感じ始めた。この感情はその後、長いこと私を苦しめることとなった。


女であるが故、性被害の苦しみはものすごく理解できるのに、被害者の女性を責めずにはいられない女性たちは、きっと自らも辛い出来事に出遭い、そのたびに「お前が悪い」と言われてきたのではないだろうか。そういう呪いに長年苦しめられてきたのではないか。

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女の敵は女、という言葉がある。一部の人間は女性同士の仲がギスギスしたり喧嘩することを面白がり、陰でけしかけるようなことをする人間がいる。
以前の職場でもそういう上司がいた。「〇〇さんはいい年して若作りしすぎだよね」と陰でベテラン女性を揶揄し、ほかの女性たちが同意するのを待つ。若い女性は「ここで笑わないのはよくないかな」などと空気を読んで愛想笑いをする。けしかけた男性はそれで保険を掛けるのだ。若い女性たちから嫌われないように、わざとターゲットとしてあまり好かれてはいないベテラン女性をつるし上げ、自分は若者の味方だから仲間だよ、という演出をし、それがうまくいったことに安堵する。
しかし、人はいずれ年を取る。若い女性たちがいつしか年を重ねた時、あの上司がベテラン女性に言った言葉が自分に跳ね返ってきていることに気づく。あの上司はとっくに忘れているだろうが、それは呪いとなってずっと彼女たちを苦しめる。


ここで一度、みんなで一緒に断ち切ったほうがいいと私は思う。私たちは少なからずこの社会に洗脳されている。自分自身に対して、そして他の女性に対して持つネガティブな感情はどこから来るのか。自らの過去を振り返り、信頼できる人と言葉を交わして呪いを見つけること。そしてみんなでつながって呪いから解放しあうこと。

「とりあえずお湯わかせ」柚木麻子

柚木麻子さんの笑いあり涙ありの子育てエッセイ。
柚木先生はずっと女性たちに寄り添うような本を書き続けており、その熱い気持ちが文章にあふれていていつも心が揺さぶられる。会見で失礼な質問をした男性記者に、どういう返答をしようかと妄想を繰り広げる場面では電車で笑いをこらえるのが大変で死ぬかと思った。
絶望しても大丈夫。私たちのそばには常に柚木先生の言葉がある。

私は未だ男尊女卑が色濃く残る田舎で生まれ育ったので、「女は家で男の世話をしているもの」という考えが常に生活にこびりつき、その思想は親元を離れて20年弱経った今も、私のそばをまとわりついて離れない。家族の洗脳というのもやはり根深く、いい大人になってもついて回る。子供を持った身としてはそのことを重く考えて生きていかなくてはいけないと思っている。



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