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森会長の女性蔑視発言問題とそれに対するメディアと世間の反応への違和感の正体



最近メディアを賑わせていた森・オリンピックパラリンピック組織委員会元会長の女性蔑視発言問題ですが、
僕にはこの問題だけではなく、
類似のパワハラ、女性蔑視、レイシズムなどにまつわる不祥事やその際に起きるメディアや世間での論争に、
以前から違和感を持っていました。

その違和感の正体を今までは掴みきれなかったのですが、
やっと言語化できるレベルまでその違和感の正体を掴むことができたので、
こうして記事にしている次第です。

森会長の女性蔑視発言問題の詳細や辞任・後任騒動については他の多くの場所で書かれていると思いますので、ここでは控えさせていただいて、
この記事では問題の本質について考えていきたいと思います。

さて、掲題の僕の抱える違和感ですが、それは
「論点のズレ」です。

今、森会長に関するバッシングや糾弾をしている人たちの中で、
「女性に対してそんな発言をするなんて許せない」
と思っている人は、極めて少ないのではないでしょうか。

では森会長を批判する人は僕にはどう写っているかというと、

「今のご時世にそんなこと言ったらダメに決まってるじゃん」
「あーあ、これだから時代錯誤のおじいちゃんは」

と言って批難しているように見えるのです。

「現代の暗黙のルール」を破ったのだから、仕方ない。時代に敏感に、
柔軟に生きていないから悪いのだ。
いくら思っていても、それを言っちゃあダメでしょ。

こう思っている人が多いのではないでしょうか。

これ、何かに似ていると思いませんか?

「いーけないんだー、いけないんだー、先生に言ってやろー」

この言葉、地方や世代によって色は異なると思いますが、
誰もが近似の表現を耳にしたことがあると思います。

そうです。
校則を破った生徒に対する教員やクラスメイトの反応に似ていませんか?

つまり、僕が思うに森会長含めこうした問題を起こす人は、
自分が悪いことをしたとは思っていない。
ただ、TPOを弁えず、時代にそぐわない発言をしてしまった。
「校則破って先生に怒られちった」の大人バージョンに過ぎないのです。

そして周囲も、「本当は」その人がした行為自体が悪い、あるいは審議に掛けられるべきなのに、
ルールを破ったことを批難する。
足並み揃えないから悪いのだ、と。

昨今「ブラック校則」が取り沙汰されていますが、
学生が校則を守らないのは、その校則が制定された理由が理解できない、
あるいは開示されていないからです。
子供だろうが大人だろうが、「なぜいけないかわからないこと」は
当然繰り返しますよね。

だから、森会長問題のような問題は、繰り返されるのです。

なぜなら悪いと思っていないから。
ただ時代に合わない発言=ルール違反をして取り締まられたにすぎない、
と思っているから。
(もちろん悪いことと思っていながらもやってしまうことも多くありますが)

森会長はじめ、彼と同世代の人は言うでしょう。
「昔はそれが普通だった」
「冗談のつもりだった、場を和ませようと思った」
これに対しても、時代が変わったんだから、で済ますのは間違っています。

確かに、時代が変わって、男女平等が叫ばれ、me too運動などもあり、
女性を取り巻く状況は少しずつ変わっていっていると思います。

しかし、彼らにはひとつ見落としていることがある。
確かに昔はそれが普通だったのかもしれないが、
その「普通」のせいで、苦しんでいた、虐げられていた人は昔から、
時代が変わる前から、そこに存在していた、ということです。
時代が変わり世間の目が厳しくなってはいるが、
そのために女性蔑視等の行動を控えているだけで、
考えとしては女性蔑視の考えが刷り込まれている人は世の中にきっと沢山いる。
そういう人がいる以上は、似たような問題はこれからもきっと起こり続けると思います。

ちょうど、納得できない校則に大半が渋々従いつつも、
時にそれを破る生徒がいるように。

こういった問題が起きる原因は、学校教育と家庭教育、地域教育などを含めた
広義の意味での教育にあると思うのです。

僕は日本で育ちました。海外の教育事情は本やメディアでしか知りませんので、ここでは日本の教育にのみ言及します。

日本の教育は、とにかく型にはめる。逸脱を許さない。
「みんな一緒に」が求められる。

そして、「問い」や「正解」を与えられて育つ。

自分で「問い」を見つけ、自分で「正解」を創り出すことを知らない。

大人から校則をはじめとするルールや、世間のルールを与えられ、
「らしさ」の檻に閉じ込められる。
本当は子供の方が柔軟な思考を持ち合わせているのに、
その思考に鍵をかける。
「男らしさ」「女らしさ」「子供らしさ」の檻に入れられて。

それらを自分で考えて、どう振る舞うか、
試行錯誤して成長する土壌を奪われている。
無邪気で柔軟で、好奇心旺盛だったはずの子供たちは、いつからかそれを失い、
「大人」になっていく。

「ダメなものはダメ」
子供から考える土壌を奪うこの言葉が、僕は大嫌いです。
ダメなものがなぜダメなのか、説明するのが面倒なだけの、大人の怠慢です。

なぜダメなのかを根気よく説明する、
あるいは自分で考えさせるよう仕向けることをせず、

ただルールで縛って、そこからはみ出したものは処罰されますよ、ということだけ明示されている。

そこから生み出されるのが、「なんで悪いのかわからない人たち」なのです。

そうなると、
「してはいけないという事は知っているがなぜしてはいけないかは知らない」
という人の括りとしては、
「やらかしてしまった」張本人も
「間が悪いなああいつ」「時代錯誤人間め」と批判する周囲の人々も、
全く同種の人間ということになります。

そこにある違いは、ただ「ボロが出た」か否か、ということになります。

ということは、批判している周囲も、類似の問題を起こす「予備軍」ということになります。

こうなると、そういった考え(なんで女性蔑視が良くないかわからないけど、とりあえず今の時代、世間ではそういうことになっているらしいから従っておこう)を持つ人が
大多数を占め(ているかどうかは僕には分かりませんが)ているとしたら、
そうした価値観を持つ親から生まれ、育てられた子供、
(説明はできないし自分もなぜか知らないが)「ルールとして決まってるんだから従え」という教員に育てられた子供たちは、必然的に
同じような考えを持つに至ることが多くなるでしょう。

人は育てられたように育つのです。

この「負の連鎖」が止まらない限り、つまりは本質的な改善がないかぎり、
フェミニストの方達の活動やレイシズム反対の活動家の方達、LGBTの差別と戦う人たちの活動などによって、数の増減はあるにしても、
苦しみ続ける人たちは一定数存在し続けることになります。

ここまで、問題の原因、構造について書いてきましたが、
どのようにしてこの負の連鎖を止めることができるのか、
僕に最適解はありません。

しかし、「教育の力」がその有効な打開策となることは間違い無いと思います。

与えられた問いやそれから導き出される正解しか持たない子供達が多い現状と、
問いを自ら発見し、自分だけの正解を創り出し、そして、その正解が十人十色であることを実体験で知ることが必要、という事を先ほど書きましたが、
詰まるところそれらは、最近教育界で言われ続けている

「課題解決能力」から「課題発見能力」へ、という
この言葉に集約されていると思います。


この教育モデルが成功し、このモデルで育った世代が親、教員になり、サイクルが回っていけば、先述の「負の連鎖」から、私たちは解き放たれるのではないでしょうか。

そのサイクルを僕は、既に先に走り出している方達や、似た志を持った同志たちと、その志を受け継いでくれる人たちと、回していこうと思っています。

余談ですが、今回問題を起こして森会長本人が、日本の道徳の教科化を推進した当事者だという事実は、相当な皮肉ですよね。
まあ、個人的には日本の道徳教育には絶対反対なのですが、
その話はまた次回以降に。

それでは、長くなりましたが。

最後まで読んでくださった方、ありがとうございました。
いつも読んでくださる方、スキしてくださる方
本当にありがとうございます。

それではまた次の記事で。

小野トロ

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