障害と障がい
大学時代、ある先生が
「メガネが発明されてなかったら私も障害者やからね」
と言っていました。
その先生はメガネをかけていました。
「障害」というものは個人の特性ではなく、
社会が個人の特性に対応できていない状態のことを指すのだと、
その先生は教えてくれました。
「障害」というと、「害」という言葉のイメージが悪いため、
ひらがな表記にするべきだ、という意見があります。
その意見はもっともです。
しかし、「障」という言葉も「差し障る」という言葉を連想させます。
それならば、「しょうがい」とするべきなのでしょうか。
少し変な気がしますよね。
そこで、改めて先程の、「障害は個人ではなく社会が生み出しているもの」
という考え方に戻ってみます。
そうすると、「障害」という言葉に付随する負のイメージは、
個人に向けられたものではなく、それを取り除けない社会に向けられることになります。
それならば、ひらがな表記にはせずに
あえて「障害」と漢字で表記することによって、
「社会が個人の特性に対応していくべきだ」
という意識づけをすることができる、というわけです。
僕は恥ずかしながら知らなかったのですが、近年はこうした流れの上で議論がなされているようです。
「障害」→「障がい」→「障害」という経緯ですね。
他にはこんな例もあります。
「ノスタルジー」という言葉はみなさんご存知と思います。
遠く離れた故郷を懐かしく思い、切なさや悲しみに暮れる、
あるいは古き良き時代の思い出に感傷的になる。
といった使われ方をする言葉ですね。
しかし、このノスタルジーは、
昔は死に至る病気として扱われていました。
17世紀に、故郷から離れることによる精神的破綻に対して名付けられた病気で、
18〜19世紀の間には、故郷を離れ戦地に赴いた兵士や、移民などがこのノスタルジーという病に苦しんだという記録が残っています。
しかし、科学、医学の発展とともにその記録は無くなっていき、
20世紀には現在と同様の「郷愁」という意味で使われるようになったようです。
このように、障害ではなく病気でも、社会の発展や時代の移り変わりで、
その形は変わっていくのです。
と、ここまで「障害」や「病気」は、個人の問題ではなく社会の問題である、
という話をしてきましたが、
実際上記のような意図で「障がい」ではなく「障害」と表記したとしても、
不快な思いをする当事者の方がいることは事実です。
とするならば、どちらの表記がいいか、終わることのない議論をするよりも、
社会、つまり当事者の方からすれば「健常者」と言われる人たち(ここにはもちろん僕も含まれます)が、その「障害」を、「差し障りのないもの」にするために努力していくしか、道は無いのではないか、と思います。
どうか、「今はコロナでみんな大変なんだから、わがまま言うなよ」
などと言えてしまう社会でなく、
こんな時だからこそ、手助けが必要な人には手を差し伸べて、
障害者と健常者という関係ではなく、
「対等な1人の人間である、けれどもある面では助けが必要だったり苦手だったりする」
という関係を作ることに、
1人でも多くの人が思いを馳せることができるような社会であって欲しいと
そう願うばかりです。
小野トロ
以前の記事へはコチラからどうぞ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?