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苦しさは「なう」では語れない

以前の記事にこんなことを書いた。

今回僕がこのような手記を残そうと思ったのは、無職で単純に暇だからだとか、あわよくばバズりたい、書籍化したいだとかそういった理由が無いわけではない。
けれど一番には自分が苦しんだ記憶を文章にして残しておきたいと思ったからだ。
そして未来の自分や大切な人、赤の他人と分かち合いたいと思ったからだ。

しかし、今になって思うことがある。

本当にしんどい、苦しんでいるときは文章など書けない。

当たり前のことなのかもしれないけれど、
この気付きはイコールで
「本当に苦しかった記憶は『なう』では語れない」ということである。

本当に苦しいときは苦しいなんて言えないということは、
その記憶や記録は、どうしても進行形ではありえない。

今もこうして、文章が書けるくらいには回復したからこそ書いているのだ。

何が言いたいかというと、
僕が皆さんに伝えたい、あるいは残しておきたいものは、けっして「ありのまま」伝えることは叶わないということである。

どんな事象も起こったその瞬間から過去となる。それを語る時には様々な観点から見直し、修正、美化が加わる。

それをできるだけありのまま伝えようと思えば、最大限「なう」に近い時点で伝える必要がある。

けれど、先ほどから言っているとおり、本当に苦しい時にはそれができない。

文章にするどころか、周りにヘルプを出すこともできない。

ここ最近の僕は死にたいと本気で考えていたけれど、
そのことを誰かに告げることができたのは、気持ちが落ち着いてからだった。

どんなに大切な人にも「この前まで死にたくて本当に苦しかった」という過去形でしか伝えることができなかった。

ここに1つ、苦しいという気持ちは水揚げすぐの市場で魚を買うように誰かにふるまうことはできない、という新たな苦しみが生まれた。

そして、誰かにこれから、自分の苦しかった記憶を話すとき、逆に誰かのそれを聞くとき、注意するべきことも加わった。

その話には本人あるいは誰かの脚色が加わっているということ。
そして、それはけっして嘘ではないし本人が本気でそう思っているということ。

過去形で語る以上はどうしようもないということ。

だからこそ、聞く側はそこに配慮する必要がある。
いや、これを読む顔も知らぬ誰かにそこまで強いるのではなく、
マイルールにそっと追加しておくことにする。



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