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あと2回寝たら。#3



ここ数日は20数年前のことを思い出しながらも、子どもたちとパートナーとのつつがなく当たり前の生活を過ごして、これを幸せというのだろうなあと感じている。こういった感情をかみしめられるようになったのは初めてかもしれない。ぐらんぐらんだった、自分のこれまでの姿の土台が、ようやく固まってきた気がする。

食事後眠たくなり横になったら、夜中に目が覚めたので、
「これは思い出してつづきを書けということだな」と解釈して
#3 と向き合っています。


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夜も蒸し暑く、昼間はもっと暑かった。
その年の夏はずっと暑かったように思う。

☆☆☆

母が亡くなり次の準備のため、病室のベッドから家に戻るまえに、
数人の親族と、父が今後のことについて話し合いをしていた。
今後の事について、ひとつ、問題、いや、課題があった。

母は、入院生活を送る中で、
「あっち(義理家)の墓には、入りたくない。」と、言っていたそうだ。
本家ではないので、すでに入っているのは、父の父だけだ。
これから入るのは、父の母、父、それから可能性としては
嫁ぎ先から子どもと一緒に戻ってきた伯母。
母の希望は自分が生まれ育った町にある、
赤ちゃんの頃に亡くなった母の姉が先に入っているお墓だった。

長男長女同士で出会い、
母は20代はめで予定していなかった妊娠のために
おなかが大きい状態で結婚して、
父は生まれ育った政令指定都市から田舎に来た。
苗字は変えていないので、婿とり、といえたのだろうか。
同じ家で、同居、婿を取ろうと思っていた祖母たちは
おなかが大きくなって後戻りできない
娘を、受け入れるしかなかったが、
本意ではなかったのだろう。
本意ではないがために、母が亡くなって父が病に倒れても
祖母は
二人のなれそめについて、恨み言のように
私に話して聞かせたのだった。
毒親ならぬ毒婆。毒々婆だと思う。
母がわりにさんざんお世話になってきたとはいえ、
それで良い気分になる人間がいるわけがない。

まけじと
私も祖母に対して不満をぶつけた。
それが不愉快だった祖母は
「おまえは赤ん坊の時から目つきが悪かった」
「(産まれて)病院から帰った後、ぎょろりと俺(祖母)の顔をみて、
『おっかねえ、将来どんな人間になるんだ』と思った」
と聞かされた。
そんな赤ちゃんいるかよ、さんざん言いやがって、と思ったものの、
祖母の『一撃』は、
まるで自分を大切にしなくなるための予防接種をうけたかのよう
私の自信とか自己肯定を奪う効果てきめんであった。

祖母の一撃、赤ちゃんの頃、の発言に限ったものではないが。


そんな状態の私の原家族であったが、
外からどう見られるか、当時の世の中の常識を大切にしていたので、
(だからこその、父と母が結婚前に子どもができたことを根にもっていたり弱者に対する偏見もあり、叔母の病気の理解も進まなかったと思えば納得できる)
社会の常識と照らし合わせて、葬儀をすることを念頭にしていた。
しかし母の遺言は、さいごのわがままのようなものでもあった。
お寺の内部事情がどうなっているかは知らないが、
当時は「隣組」で、葬儀があれば、祖母たち檀家の人たちは
御詠歌を詠うしきたりだった。葬儀があれば地区の人たちがお寺に足を運んでいた。自宅でお通夜を行い、お葬式の司会は区長が行ったり、昭和のお葬式だったのだろう。そんな雰囲気だった。


当時の社会常識に照らし合わせようとすると、本来、葬儀は、母は父方の性を名乗っているから、政令指定都市のある、父の父が眠っているお寺でやるのが筋である。しかし個人の遺言が一番に優先させられるのなら、葬儀を行ったお寺に納骨しない、とするならば、問題がでてくるのではないか。それを懸念した。
父方のお寺は、その政令指定都市が形作られたころ、町割りを行った武将が居城を移す前、祖先を弔うために開山したという由緒がある(檀家となったのは父の父が亡くなったあとであるので父方に由緒があるということではない。ただ、親戚のいうことには、当時のその武将の足軽として一緒についてきた一味が祖先らしい。)。偶然にも、どちらの寺も宗派がおなじだった。格上の寺の承認を得ず、好きなようにやるのでは、あとあとそっぽを向かれるのではないか、ということを親戚筋が心配した。

どうにも、あの世に行こうというのですら、
一筋縄ではいかない世の無常を感じた。

しかし、父方のお寺の住職さんは
「そう言ったことに問題はないです」とのことで、
葬儀は母の希望通りに行われた。
それはそれで、いろいろな親戚からいろいろなことを、聞かれた。

なにごとも、簡単ではないもんだと。当時は思った。
また、こういった「なんでそうなるの」体験を積み重ねていくことで
 ・世の中ひとすじなわではいかない
 ・なんとかなる、ではなく、なんとかする、それが人生
と思うようになった。


母との自宅までの道のりが、長かった。
私は、姉の運転する亡き母の車で自宅へ、父の車を、親戚の一人が運転、
父と弟が、寝台車に母と乗り帰宅することになった。

夜中にも関わらず駆けつけてくれた、祖母の弟は、
祖母とは違い博識のある方だった。
祖母はこの弟に一目おいていた。
当時で70代であったが、石橋をたたいて渡る性格で、
明け方前のバイパスを時速50キロ未満で走行していた。
工事中でもないのにその時間帯を50キロで走行するなんて前代未聞である。
その大叔父に出発前に「後ろをついてきてね」と言われた姉。
私はその助手席に座っていたが、後ろを見ると渋滞の2台目の先頭車両で、
スピードをこれ以上出さないとわかると、
右側を走る車は皆ビュンビュンと追い越していった。
スピードが遅いことに気づかずに後ろから来る車に
そのうち追突されるのではないかと、ひやひやであった。

長い一日が始まったばかりで、夜も明けてはいなかった。



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