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月曜モカ子の私的モチーフ vol.174「烏頭(うとう)」

毎年恒例になっている知り合いの能楽師さんの夏の能を観た。
「烏頭(ウトウ)」という演目は流派によって「善知鳥」と書かれる。鳥の名前。
親鳥が「ウトウ」と声をかけるとひな鳥が「ヤスカタ」と答える。この習性を利用し「ウトウ」と声をかけ雛鳥を捕まえ殺め続けた猟師が、死してなお、地獄でその罪を償わされているという、そしてエンディングまで一つの救いもない演目。「カケリ」と呼ばれる、猟師が鳥を追い詰めている時のリアルな演技と、亡霊となった猟師が化鳥に追い詰められ、家族子供と引き裂かれて、二度と触れさせれもらえないくだりが印象的な「三卑賤(さんひせん)」と呼ばれる能の1つで、殺生を強く諌める内容と言える。か。

                           
初夏の能は本当に「露払い」的な、神事というか儀式というか、いつも「霊性」が高いなあと思って見るのだけれど、
この「恐ろしく陰惨なものを見ながら何かが祓われていく」感じってなんなんだろうと考えた。毒をもって毒を制しているような感じすらある。烏頭のお面は、死してなお成仏できずに地獄をさまよう苦悩のお面ゆえ凄まじい形相をしていて、わたしはあまり長い間直視できなかった。その面を「顔につける」これはもう強靭な肉体と、魂を持っていなければできぬことだなと、改めて「霊性」の角度から、役者という仕事ついて考える。

                           
休憩のあと、隣に座っていたおばあさんが「可愛らしいおかばん下に置かずにここどうぞ」とわたしとおばあさんの座席の間のようなところを指差す。そこってほぼおばあさまの”座席”なので、「いやいや申し訳ないです」と言うと、
「いやいや本当にスペース空いてるから」やり取りはそこから「可愛いバッグね。若いといいわね」となった。
妹がデザインするブランドの夏のバッグ、今流行りのビニール素材、輪郭は真っ赤で、がま口ぽい作りだが中は透明で外から中身が見える感じ。金魚すくいの帰り道のようなバッグである。絽や紗の着物を持っていないので洋装と相成ったその日、かばんくらいは少し和の涼菓子のようなものを持ってきた。そのデザインが珍しいと彼女は思ったみたい。

                           
「いやいやさほど若くもないのですよ」と答えていたその先の彼女のお答えが「わたしはね、92歳なの」
思わずお顔を見直し(そりゃあわたしなんか小娘だわ!)と思い「そうなんですか!?」いろんなこと聞いてみたいなと思ったあたりで、能が始まり二人とも前を向く。

                           
昭和初期のことを今連載で書いているので、あのお方は一体何年生まれなのだろうか、ということが、終演後も頭の中に引っかかっていた。
終演後、おばあさまは92歳とは思えぬ身軽さでさっと場外に出られ、再び話すことは叶わない様子だった。
もう少しお話したかったなと思いながら西麻布行きのバス乗り場で並んでいると、しばらくしてなんとそのおばあさまがやってきた。
あの劇場の中にいた人たちは、皆一様に散り散りになったのに、今わたしとおばあさまだけがこのバス停に並んでいる。
場内で隣り合った人がまたこうやってバス停で一緒になるのはどれくらいの確率だろうか数字で語れば。
「どうも!」
わたしが声をかけると最初彼女はわたしがわからないようだったので、わたしは「さっき能で!」と言った。おばあさまは私の赤い金魚鉢バックに目を落とし「ああ !」と微笑んだ。おばあさまは大正15年のお生まれだった。

                          

「わたしはシルバーシートに座るわ」とのことだったので、わたしはその近くの普通席に座った。隣に座るのはシルバーシートゆえ気がひけるし、前に立ったらおそらく彼女は「わたしが立っている」ことが気になるだろうと思ったから。劇場でわたしのかばんが下に置かれているのすら気の毒に思って声をかけてくれた方である。

                           
発車まですこし時間があったので、わたしはおばあさまと目を合わせて笑ったりしていた。するとおばあさまが立ち上がってわたしのところまで来てこう言った。「そうそう、さっきの能はね ”**能” だからね、拍手をね、しないんですよ」
**の部分が聞こえなかった上、おばあさまを立たせて自分が座っているという状況に(これで良いのか!?)と気にもなりわたしの返事は、
「今そちらに行きますのでお座りくださいませ!」だった。
おばあさまは「いいのいいの」と言って、席に戻って、ウンウン、と頷いてこちらを見た。
「能の種類によっては拍手してもいいものもあるのよ」

                           
なんだろう。不思議な感じ。この時なんだかとても不思議な感じを受けた。
わたしはこの日帰ったら「わからないものをわからないものとして捉える面白さ」について隠しブログを書こうと思っていた。(最近隠しブログをやっているのです。でも隠しているわけではない。時期がきたらきっとちゃんとした形でみなさまにお知らせできると思います!)
実際能というのはわたしにとってもやはり未知の部分が多く、筋書きを知って見ても「わからない」部分が多数であって、でも「わからくて良いのだ感じれば」ということが数を重ねるごとにわかって来て、その”感じる”という観方がとても面白いのだった。

                           
そんな中でわからないことだらけのこの「烏頭」という演目、演者が知り合いであっても「なぜこれを選んだのか」「三卑賤(さんひせん)」という演目の本質はそこにあるのか「あの凄まじいお面をつけるのに勇気は要らないのか」などなど、知りたいことは湧き出ている状況で、
隣に座ったおばあさまが、(また会いたいな)と思っていたらバス停で再会して、わたしは生まれた年が聞けたからいいやと思っていたところーー昭和初期研究家としてはそこ1年1年が全く違うので、どの年に生まれたかはとても興味深いのですーーその92歳のお足元、しっかししているとはいえエンジンがかかり振動するバスの車内で多少ぐらぐらしながら、わたしのところへ近寄り、それを教えてくれたこと、
これってなんなんだろう、と、得体のしれぬ巡り合わせを感じた。
                           
おばあさまが伝えてくれたその感じは、文化の継承に近いような感じだったのだ。
いわゆる、劇場では携帯をお切りなさいね、マナーが悪いですよ、というような「今時の若いもん」に対するお叱りではなくって、あくまで「このお若い方は一生懸命、能をご覧になり、拍手をされた」というわたしの持つ「無知」へさえもまず「敬意」があって、
だからこそ彼女に教えてあげなければ! といったような感じだった。

                          
と、ここまで書いてもじぶんがあの時受け取れたものを全然上手に言い表せていないのだが、ともかくわたしはあの時、92歳のあの方から、何かしらのバトンを受け取ったのである。あの振動する車内、そこへぐらつく足元で、必死につり革を握りながら、彼女がわたしに語りかけてくれたあの感じを、きっととても大切にしなくてはいけないのだと思う。

                           
その後彼女は、恵比寿3丁目でさらりと降りていった。
バスは全然混まなかったので、そのことを知っていたら、ここまでお隣に座りたかったなと思ったが、きっと全て「これでよかったんだろう」と考えることにした。
わたしは日赤医療センター下で降りた。13年前にわたしがナオミと一緒に住んでいたマンションの真下。その後ナオミと入れ替わるように上京してきた当時18歳の妹は、向かい側のバス停から今わたしがやってきた方向へ向かってバスに乗って学校へ通っていた(その学校のすぐ近くの能楽堂だった)。そのお家は広尾のマンション、として「蝶番」にも少し登場する。そしてその「蝶番」を書いてから、今年10年目の夏を迎えているわたしであるのだ。

                           
降りて少し歩けば風と一緒に体内に流れ込んでくる「あの頃」日赤医療センター下から西麻布まで、歩いて7分もない、その7分の中に過去への巡礼が含まれる。それはでも、また、別の、お話。 


「陸奥の外の浜なる呼子鳥、鳴くなる声はうとうやすかた」 藤原定家

        <モチーフvol.174「烏頭(ウトウ)/絵=Mihokingo>

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