自分が踊る必要はない
母は私に何でもかんでも与えてしまう人だった。
私のためなら時間も苦労も惜しまない。
お習字にピアノ、英語教室、日本舞踊、バレエ。
いわゆる『お嬢様』が嗜む習い事はひと通り経験させてくれた。
(先に断っておきますがうちは特別家柄がよいわけでも祖父から多額の遺産を受け取ったわけでもなく、ごく普通の一般家庭です。ていうかじぃさん健在。)
英語教室には一年近く通った記憶があるけど、同級生の男の子と喧嘩をして辞めた。原因は忘れもしない、お気に入りのワンピースを馬鹿にされたから。
実に小学生。この上なく小学生である。
お習字は小学4年生から中学2年まで、それなりに楽しくやっていた。しかし今度は同級生が所属していた女子グループのリーダー格と揉めて、またもあっさり辞めた。別に彼女と私が仲違いしたわけではなかったけど、彼女の方に不都合があったのだ。
中学生なんてそんなもんだよね。
懐かしい。
ピアノは体験教室の時点で不向きなのは明らかで、記憶にないほどすぐ投げ出した。日本舞踊は昔ながらの日本家屋を気に入ってしばらく通ったけど、初の発表会に出たあとコレまたすぐ辞めた。
そもそもリズム感がなかったのだから踊れるわけがないのだ。
始める前に気づかんか。
と思います、私も。
こうも次々と習い事を始めては辞めを繰り返せたのは、そもそもどれもを自ら望んで始めたことではなかったからだったと思う。母が「どうか」と勧めてくれたものばかりだった。
七色飯。あれと同じ。
はなから気に入らない可能性があったものを突き返すのに、罪悪感や未練などなかった。目の前に用意された選択肢のひとつを「これは違う」と切り捨てることは、そのうち唯一無二のアイデンティティを見出す結果に繋がるはずだったのだ。
私にとっても、母にとっても。
だから私は悪びれることがなかったし、勧めた母も特に続けろとは言わなかった。
ただひとつだけ、それなりの覚悟をして辞めたのがバレエだった。
小学3年生の頃、図工の授業で描いたお寺の絵がコンクールで最優秀賞に選ばれてブラジルのサンパウロ市へ渡った。
私ではなく、絵がね。
今見てもなかなかよく描けている。
授賞式の数日後、学級担任から私と母に呼び出しがあって、そこで絵の勉強を勧められたのがきっかけだった。
それで、バレエを辞めた。
飛躍して捉えられるかもしれないけど、うちの方針としては当然、何か始めるなら中途半端はいけないのだ。
「絵を描きたいなら、バレエは辞めなさい。」
「はい」
というわけだ。
非常にわかりやすく、非情である。
いくら『お嬢様』に育てあげたい希望があるとて、バレエに絵となると経済的にも時間的にも苦しい本音もあったと思う。
というか、私自身にとっても無理があった。
バレエのレッスンは週2日。ならそれ以外の日は休みかと言うと、そうではなかった。
足の爪がボロボロになるまで練習した。
そもそもリズム感がなくて人より劣っていたのに、スキルより拙い可愛さ目当てで見てもらえる小学生ばかりのコール・ド・バレエでは目立つ位置に据えられがちだった。体型だけはダンサー向きだったのだ。そのギャップを埋めなければならないプレッシャーは私自身より母が大きく捉えていて、広めの実家の玄関にミラーパネルとバーを設置してまで練習に付き合ってくれた。毎晩風呂上がりに背筋と腹筋を100ずつ。ストレッチも欠かせない。
私の身長が他の親戚と比べて伸び悩んだのは、幼少期に筋肉を鍛えすぎたからだという見方もある。
母方の従兄弟の中で女性だけを並べても、年齢が上から2番目の私は背比べだと最下位だ。
弟は180cm近いし、母も165cmを超えている。
話を戻そう。
バレエのレッスン漬けだった生活の中に、絵を描く時間など作れるわけがなかったのだ。
そうして行き着いたのが「絵を描きたいから、バレエを辞める」だったのだが、これは単純なように見えて、かなり苦しい決断だった。
阿波踊りだと冗談めかして大人に笑われたバレエの世界は、少なからず私の芸術に対する感性を高めたように思う。キラキラした衣装も、華やかなメイクも、しなやかなプリンシパルの肢体も、美しくて艶やかで魅力的だった。
実は、当時同じバレエ団に所属していて今は世界を前に踊っているバレエダンサーのくるみ割り人形『金平糖の精』を見た時、生まれて初めてエクスタシーを知りました(色々バレるので実名は出さない)
呼吸を忘れ、鳥肌が立って、全ての血液が体の中心に向かって縮む感覚。
あれはたぶん、ソレだった。
私はそれになりたいとか、それに飾られたいとかよりも強く、この美しいものをずっと見ていたいと思った。
だったらそうすればいい。
自分が踊る必要はない。
作り手になればいい。
1年かけて、その考えに至った。10歳にも満たない女の子にとっては重くて長い時間。それを経て、私は絵を描くことを選んだのだ。
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