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INFJは、自分らしさを見失いたくない

前こんな記事を書きましたが

見失いたくない記録です。
乱文だと思います。


これまで私は、『私のまま』じゃダメだった。誰に言われたからじゃない、私にとってダメだったのだ。他人に対しては「どんなふうでもいい、あなたはあなた」と心から思える。心からなんだってわりと受け入れられるのに、自分には自分のままでいいと思えなかった。自分のままだから社会に受け入れられなかった…と思っていた。そして、自分のままを変えたことで社会に適応した。休日は「私の心理的に、努力してやらねばならなかったと認知していた趣味である創作」に没頭したし、「私の心理的に、努力してやらねばならなかったと認知していた人の育成」をした。…その人は離れていったけど。まさしくメサイア・コンプレックスというやつだ。無駄な方向性の努力。

四半世紀生きたいま、自分のままで良いとは?という課題にぶち当たっている。

だからたとえばMBTIであれば、憧れの心理機能INTJに擬態したし、EだってSだってTだってPだって羨ましい。

他人の、生まれつきの「才能」は、いつでも羨ましい。心から羨ましいと思っている。自然に表されて、そのうえ許される才能は美しい。

ここ1~2年は時折虚無感に襲われることが多かった。
必要とされなかったり、私の望みとは違う事を望みだと認知して無駄な努力をしていたり、だったからだと思う。

元からの傾向として、誰に褒められようと原動力にならない。そして、自分の中にも原動力は存在しない。モチベーションがなかろうと原動力がなかろうと、私は仕事の結果を出せた。褒める言葉なんて要らない。それで自分は自分の事が好きだと思っていた。でも、それはめちゃくちゃ認知が歪んでいたからで、自分に向かっているのは条件付きの愛だったことに最近気づいた。
○○ができていない私は好きじゃない。○○ができている私だけが認められる。○○ができていない私を愛する人はいない。私でさえも。

自分の望みって何だろうなあ。

例えば、2つ(2種類)しか食べものがなかったとして、人と分け合う時に、自分が「少しだけいいかも」と思った方を先に他者が選ぶのだったら、もう意見は押し込めてしまう。私、お腹がすいたのかな?食べたいものも別にない。でも、まあどうでもいいか。そう思ってしまうのは感覚劣等者だからだろうか。

例えば、「この休みは自分の為にただ何もせずに休む。インターネットはできるだけしない」と決めたとして、誰かが「私にとってどうでもいいし、すごく時間がかかってしまうし、私じゃなくてもできるけど、もう今日明日に終わらせたいと他者が望んでいる事」を頼んできたら、心を殺して頼みごとを行っている。それはまだ終わらない。明日にもかかるだろうか。なんで休みの日に心を殺して、やりたくもないことを延々やってるんだろう?やっている間、気がかりで、趣味も、また休むことすらできていない。ネットサーフィンをして、こんなnoteを書いている。

調子が悪そうな私を心配する家族の様子も有難いけど煩わしい。いつも通りでいてほしい。でも、意見を言おうとすれば口が開けない。自分の意見が消えそうで、涙が出そうになるからだ。

私の望みは、私にとって、大したことが無いんだと言う事か?

そういえば、ずっとずっと自分に対してそんなことをしてきた。
先ほども同じことがあった。でも、どこかずっと嫌な気持ちがあった。それでちょっと泣きたくなった。ちょっとじゃない、結構泣きたい

ちいさな自分の望みを聴くには、どんな大切な他者であっても、存在するだけで邪魔なんだろうか?
複雑怪奇すぎる自分の心情が、さいあくで許せない。

ひとりになりたい。なぜだかなれない。
きっと、私はひとりになった方がいい。
その方が人にも自分にも優しいままでいられる。

多分いま、人生の中で、一番病んでいるんだろうなあ。
早く抜け出したいんだけど、なにかが邪魔をして抜け出せない。
抜け出せない自分を、いつも通りにできなくなった自分を、受容したいのに。

そもそも、できていた仮初の自分や、できなかった本当の自分という認知が幻想だと言うのにな。

自分らしいって、自分らしいままでいいって、なんなんだ。
もう嫌いなままでいいから、ただ自分を許したいよ。

少し部屋に閉じこもろう。
誰にも話しかけられたくない。誰の感情もおっくうだ。
残った作業はまた後で行うから。

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