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自ら考え、一人で生きるよ。|春に愛されるひとに わたしはなりたい(花澤香菜)

台風が消滅した9月2日の朝の街を歩くと、陽光はやわく風は涼やかに半袖を通り過ぎた。
2024年も、いつのまにかあと4か月なんだね。

ひとつ前の記事を書いてから「もう9月かー」と思ったのと、
併せてふと好きな曲を思い出したので、単純に自分用の記録です。

たぶん、大枠小説を書きたいんじゃないかなと思うんだけど、
頭の中で他人を動かす原動力がないから、自分のために文章を綴るしかできないっぽいですね。


春に愛されるひとに わたしはなりたい


20代後半、私は暗闇を歩いていた。
まるで湿度は高く、数キロ先まで靄のかかる視界に、体だけは自動で歩いていたけど、立ち止まっていた。
私の思考は日本語の文章でできている。
抜けるためのあと一歩として、noteを書き始めたといっても過言ではない。
具体的に言うと27歳、28歳のころ。内側に引きこもって、世界をうらやんで、毎日が悲しくて、思考はやめられなかった。考えることすら嫌でたまらなかったけど、考えることだけが抜ける術だと信じていた。


今思えば、考えることのほかに、動くことも重要だと思う。


比べて、30歳の私は実に健康的だ。
体力は少しだけ衰えたけど、運動をするようになった。
好きなものや許せないことを理解できるようになった。
誰にも言えなかった核心を、口に出せるようになった。
自分で物事を決めて進められるようになった。
言葉に頼らず、イメージだけで生きられる日も増えた。
多少自信はなくても、考えないままで無為に動けるようになった。

物理的に一人で生きるようになり、私は自然体に近づいたのだと思う。


そういえば、数年前から「こう生きたい」と感じていた曲があることを思いだした。
まさに2018年、5~6年前のことだ。

立ち止まろうが世界は止まらない。だから止められない歩みの中、誰かの人生と交差する。
立ち止まっていた時よりも周囲に人が増えた。それでも一人だ。私は一人。明確に一人。
誰か私に特別な人がいたらいいのにと、慟哭した昔の私は過ぎ去った。
いや、過ぎ去ったと断言するのは嘘だ。まだ、時折少しそれをさみしく思う。
でもそんなことより、いやそれも大事かもしれないけど、私は一人である。

そしてなりたい私として生きているよ。自分のために、たまには人を思いやっているよ。
人に求めるよりも、自分に求めたい。
そんなことだけでこんなにも心地良いのなら、悩んだあの数年も悪くはなかったよ。

私はそういえば、春に愛されるひとになりたかった。
今の私はどう?
できるならば、今日よりももっと明日の私がそうでありますように。


たとえばさ ほら かなわない夢の数を
かぞえ 眉をひそめてしまうより
へたくそな でも 誰かを思いやるための
言葉だけを歌おう

歩きはじめた 仲間たちの背に 心奮わされて

春にふさわしいひとに わたしはなりたい
凍てつく寒さを 超えていくような
信念を手にして おもねることなく
まっすぐに 生きていく ひとり

春に愛されるひとに わたしはなりたい/花澤香菜

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