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殺せないけど救えもしない2

(画像は頭馬鹿ピンクな頃のわたし)


これは昔に書いた「ベストな選択とは」にかぶるところがあるけど、こっちはもっと細部にまで迫った話。
生を放棄した私の罪と、今の私に至るまで。

あの2年間、私は私ではなかった。けれど第三者が関わるならばそれはただの「私」だった。誰もが「今はいつものまなじゃないんだな」と見てくれるわけではないということだ。

残った記憶が曖昧な中、いつも思い出して胸がグッと苦しくなってしまうのは母を泣かせてしまったこと。
高齢の身でありながら腹を痛めて生んで、育てるために働いてお金を稼いで、ご飯を作って、20年近く一緒に生きてきた娘が「死にたい、私はもう何がなんだかわからない」なんて言ったら、泣いて叫んで手足が勝手に痙攣する娘を見た母親は、

どんな気持ちだろう。

母は最初から最後まで至極冷静だった。
彼女の器と覚悟は計り知れないもので、彼女にとっても娘がおかしくなるというのは初めての出来事ではなかった。

「死にたいのなら私の知らないところで死ね」
「せめて人の役に立って死ね。地雷を踏んで死ね」
「今すぐ荷物をまとめてこの家から出ていけ。飛行機代なら出す」

ここまで言う母が一度だけ、弱々しく泣いた。
「おまえ、おかしいよ。帰っておいで。もう頑張らんくていいよ。帰っておいで」
電話の向こうで母のすすり泣く声が聞こえた。
母の隣で父はどんな顔をしていただろう。

私は家にあったモンステラの鉢を倒して、床にこぼれた土の上に頭を横たえながら罪悪感と悲しさで静かに泣いていた。私は頑張ってなんかいない、ただダメなだけなんだよ、ごめんねお母さんごめんね
口の中に入った土は青臭かった。
何も言えず静かに電話を切った。
その夜は包丁を握って眠った。

こんな私が家族と縁が切れなかったのは、友達の誰とも関係が破綻しなかったのは、その人たちが全員優しかったから。そしてただただ運がよかったから。

全てを失ってもおかしくない状況で何も失わなかったのは、結局その時は望んでいなくとも「生きる」方向に道が伸びていたから。他の誰かが伸ばしていてくれたからだと思う。だから私が今生きているのは、みんなのおかげなんだと、心から思う。

実家に連れ戻されて2週間後くらい。いや、なんかもうよく覚えていない。
順序があやふやだ。とりあえず最低限の荷物を持って実家に帰って後日姉と引越しに行って、そこからはずっと家、だっただろうか。

私の症状の5割は誤診による薬の誤った処方、副作用が原因だった。
手足が勝手に動くのも、歩き回るのも、記憶があやふやなのも薬のせい。
地元の病院の先生はとてもいい先生で、薬もすでに私に合ったものが見つかっていたので、そのおかげもあって思いのほか私は早く落ち着いた。
何もしなくていい状況で、家族のもとで過ごす時間はなによりもおだやかだった。
私にとっては本当に長い時間に感じたが、1年カレンダーで見るとあっという間の出来事だった。


家にいる間に大好きな猫のももが死んだ。私がいる時を選んでくれたのかな、と思ったけど気まぐれなあいつがそんなことするわけないか、と笑った。
悲しかった。


なぜ私はこうなったのだろう?
過去の記事「ベストな選択とは1」「2」にある通りだ。
塵も積もればとはよく言ったもので、破滅はいきなり来るのではなく着実に段階を積み重ねている。
ギリギリ保たれているところに最後のひと吹きが来てそれらはすべて崩れ去る。
私が私として生きている以上、あの破滅は避けられないものだった。
踏まなければいけない段階だったんだ。

正気を取り戻した私に、大学に通い続けるという未来はもうなかった。
あの土地に一人で暮らし、あの場所で勉学に励む意思と意味がなかった。
迷わず休学ではなく退学を選んだ。
退学手続きはすべて文面上で、驚くほど簡単に事が済んだ。

退学後の道として私は東京の専門学校への進学を決めた。
うちは貧乏だけど大学4年分の学費は両親が残していてくれて、奨学金が借りられればなんとかやっていける算段がついていた。
そんな風にお金をかけるならば、将来のために行く学校ではなくて、生きるために行く学校に行きたかった。勉強がしたかった。
将来のため」と「生きるため
私はそこをはき違えていた。

この出来事が最近の私の人生の中では、一番のターニングポイントなのに、こうなるに至った経緯の記憶が全くない。ごっそり無くなっている。
いくらかそのとき書き溜めた文章があるはずだがどこに書き記したかも今は全く思い出せない。過去の私が何を思ってこの道を選んでいようと、今が大変充実した幸せなものなので何も問題はないが。

全てが滞りなく進んだ。
学校に合格し、学校指定の寮の入寮抽選に当たり、給付型奨学生の対象にもなった。今の学校で学ぶための道がスルスルと開けていった。
私があの時選んだ道は”正解になった”のだ。

どの選択が正しいか正解かなんて未来でしか分からなくて、ならば私たちは自分の心のままに道を決めるしかできない。

薬は飲み続けている。1種類だけだがカプセル式なので減量が難しく、いきなり断薬すると離脱症状がとても辛いからだ。
たぶん、今の私は薬がなくても大丈夫なんだろうけど。
今年には錠剤状の同薬が出ると聞いている。錠剤なら砕いて減量、いずれは断薬ができるだろう。
薬を飲んだか今はちゃんと記憶が残るし、1日うっかり飲み忘れたとしても不安にならない。上手に薬と付き合えている。
毎週のように帰っていた実家には、この社会情勢の影響もあるが半年ほど帰らなかった。
それでも私は一人で、初めての土地で生き延びていた。
家族には会いたかったが寂しくはなかった。

今日もいい一日だったと思える幸せ
明日も頑張ろうと思って眠れる幸せ
夜中に眠り、朝起きられる幸せ
朝から体を思い通り動かせる幸せ
物事を順序だてて考えられる幸せ

”当たり前”の全ては実は「幸せ」だった。

これが”通常”なんだ、多くの人たちや昔の私は毎日こんな風に生きていたんだろうかと思ったとき、少し泣きそうになったけどせっかくしばらく泣いていなかったので、グッと我慢した。

おかしくなった春から2回目の春(1回目の春は「私は何も変わってないどころか酷くなってるじゃないか」と絶望した)
私は久しぶりに空気の温かさに、桜の美しさに、心が春独特の期待や切なさに躍る気持ちを思い出した。
「感情が動く」
感動というものが私の中に蘇っていた。


今回はどうやって治ったのかそもそも原因は何なのか、そして治療後の人生がどう展開したか、覚えている範囲で書き出した。
次からは私の体験談ではなく実用的な知識が多くなるので、おそらく私の体験よりは役に立つかと思う。

私は治った。これは特別なことではなく誰の身にも起こりえること。
治療を今も続けている人は諦めないでほしい。
元の自分に戻れる時が必ず来る。

私の体験や病気など大したことはないし、それをこのように大々的に語ることに少し恥ずかしさを感じてしまうけど、もし私の大切な人が同じような苦しみを抱えていたら「大したことないなんて言わないで。めちゃくそ大したことだよ、あなたが苦しんでいるんだから」って言いたい。

あなたは頑張っている。生きていい。生きていてほしい。

このシリーズの第1回「殺さないけど救えもしない1」に想像以上の反響があったことに本当に驚いています。

「あなたがあの時どういう状態だったのかよく分かった」
「私の身近な人が鬱病になってしまって、こういうことだったのかと少し分かった気がした」
「今、まさに私がそんな感じで」

みんなの背負っている重荷がズシリと伝わってきた感覚でした。
感情は言葉にしないと伝わらない。
こうして言葉にして私に届けてくださった皆様、本当にありがとうございます。

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