計画の根っこには自信があり、向かう先には希望が見える
自信がある
それってどういうことなんだろう?と思って、最近考えている。
わたしは、よく堂々としているよねと言われるので(自分ではそんなことないと思うのだけれど)、きっと自分に自信があるんだと思う。
それってどういうことなのかなあと思って。
だってね、わたしは他者からの評価がとりわけ高いタイプでもないし、誰もが羨むお金持ちでも美女でもない。だから、周りに堂々としていられる方が不自然というか。自信がない方が自然だと思うのよ。
それで堂々としていると言われるのは、なんだか自分はやばい人間なのではないかと思ったりもするけれど、ただ、そんな時、もう1人の自分が「いやいや、あなたの自信は、他者からの評価で成り立っているほど脆いもの?」と問いかけてくる。
多分、そんなに脆いものじゃない。
だから、わたしの中に潜む自信の正体は、自分自身から湧き出ているもので「自分の感覚をただただ信じる力」なんじゃないかなって、そう思った。これはピンとくる!
自分の感覚に耳を澄ませ、ただ信じること。
そうそう、自信は手に入れるものとか、身につけるものというよりかは、元々備わっているもののように思う。
「こうするべき」とか「これが流行っている」とかそういう他者の視野を「そうなのかな」「なんでかな」と自分にすぐに取り入れずに、いったん疑って崩してから、最後は自分に見えたものをただ信じること、信じて行動すること
(別にこれは、常に変わり者であり続けろ、個性的でいないとだめだということではなくて、いったん疑った先に、周りに同調することはなんの問題でもなく。)
これを、先天的な自信とでも呼ぼうか。
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でも、先ほど「自信は元々備わっている」と書いたけれど、「自分の感覚をただ信じる力が保たれ続ける」ということは結構大変なことだと思う。だってどうしても他者からの評価を気にしないで生きてこられるわけがないから。
あなたはこれが最下位でした、と数字を出されたら、そりゃあ自信をなくして落ち込むし、これだけは失敗し続けているからどうしても自信を持てないなと思うこともあるし、これは自信を持ってはいけないのではないか、と思うことさえある気がする。
そういった、先天的な自信が自分の中からすっぽりなくなった時にどうしたら良いかを考えた。
わたしなりに考えると、それは、「自分を知ること」でカバーすると良いのではないかなと思った。
自分を盛ったり謙遜したりせずに、きちんと自分のことを過不足なく知っていると、自信のあるなしとは関係なく、堂々と自分を伝えることができると思うから。
自信がないままでも「これができます」「これが得意です」「これで評価された経験があります」「これはできません」「これが苦手です」と事実を伝えることは、怖いことでもなんでもなく、むしろ、例えば自分をよく見せようとして嘘を相手に伝えることよりも、よっぽど印象が良いはず。
自分の持っている事実を伝える行為と、自信があるということは、全く別のもので、ただ、事実を伝える行為を繰り返していけば、その行為自体はとても堂々としている様で、自信があるように見えるのではないかなあ。
そうして、堂々としているね、芯があるね、素敵だねと周りに言われるようになったら、「わたしって堂々としていて芯があって素敵なんだ」「自分は自分の思うようにやったらいいんだ」と自信は後から湧いてくるのかな、と思ったり。
これを、後天的な自信とでも呼ぼうか。
ーーー
今の心を信じられる先天的な自信と、過去からつくられていく後天的な自信は、両方あって初めて未来の自分をつくってくれるのだと思う。
なりたい自分になるために何か新しいことに取り組みたい、何か自分の意見を人に伝えたいと思った時
そういった計画の根っこには、過去の行動と今の心から作られた自信があって、それではじめて向かう先に希望が見える気がします。
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なんだかnoteを書くのが久しぶりだ、と思ったけれど、
まだたったの1週間ぶりでした。
今、電話している友達に「ねえ自信って何?」って聞いたら「わたしのみぞ知る、納得できて満足できることが、自信なんじゃない?」だって。深い。
今日もお疲れ様でした♩
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