063.JJと『なんクリ』

女性誌「JJ」が、本年12月23日発行の2021年2月号をもって月刊誌としての発行を終了し不定期刊行になると、光文社はHPで発表しました。この事実上の休刊理由は、「ターゲットとなる20代を取り巻く環境、ライフスタイルが大きく様変わりした」からだそうです。

先週の首都圏の終電の繰上げニュースに引き続き、この発表もまたひとつの時代が終わったと、私には感慨深いものがありました。

1975年に創刊され、1978年に月刊化されたJJは、女子大生のバイブルと評されていましたが、1978年に大学に入学した私の世代は、まさしくJJのターゲット世代そのものでした。私の大学四年間は、 JJの提唱するニュートラやハマトラのファッションをしていない子を探す方が難しいほどでした。

裕福な家庭の子女は、本当に雑誌から抜け出てきたように全身ブランド品を身にまとっていましたが、大抵の女子学生はバッグだけ、靴だけ一点か二点をブランド品にしていました。私などアルバイトでなんとかしのいでいた女子学生は、何万円もするバッグや靴にはとても手が出なかったので、その辺のお店で売っている「なんちゃってニュートラ」で通学していました。

あの時代に想いを馳せていたら、無性に『なんとなく、クリスタル』を読み返してみたくなって、ネット書店で取り寄せてみました。敢えてkindleではなくて文庫本で読み返したのは、少しでもあの時代の空気を味わいたいと思ったからでした。しかし、文庫本にはかつての単行本に付いていた二色のしおりひもがついていなくて残念でした。

「本文と註を“往き来”するであろう読み手の利便性を考え、製本用語でスピンと呼ばれる水色と白色の2本の栞紐(しおりひも)を、僕の我が儘で付けて貰ったのを想い出します。が、自分で言うのもなんですが、こうした僕の“心配り”は、あまり理解されませんでした」
田中康夫著『33年後のなんとなく、クリスタル』*文庫本化に際しての、ひとつの新たな長い註。 「いまクリ」と「もとクリ」、 その記憶の円盤が舞い続ける時空。より

『なんとなく、クリスタル』、通称「なんクリ」(あるいは「もとクリ」)と呼ばれたこの小説は、1980年5月に当時一橋大学の学生だった田中康夫によって書かれ、その年の「文藝賞」を受賞し、芥川賞候補にも選ばれ、「十年後に期待したい」という評が出た選考会の翌日、1981年1月20日に単行本として出版されると、途端に百万部を超えるベストセラーとなり、クリスタルブームを引き起こしました(尚、この時の芥川賞受賞作品は、赤瀬川原平が純文学作家のペンネーム尾辻克彦で書いた『父の消えた日』でした)。

◇ ◇ ◇

主人公の由利は昭和34年(1959年)生まれ。つまり、私と同い年です(002.同い年に、同学年の著名人一覧を掲載しています)。商社マンの父の仕事でロンドンからの帰国子女である主人公は、現在両親がシドニーに赴任中のため、学生だけれどミュージシャンの淳一と、神宮前四丁目に十畳の洋間に八畳のダイニング・キッチンという部屋で共に暮らしています。

一年生の六月に「授業が終わってからベル・コモンズを見ようと思って、一人で青山通りを歩いている時に」スカウトされ、モデルクラブにも所属しています。「シドニーにいてなにも知らない両親の口座から、毎月、幾らかのお金が生活費として降りていた」けれど、「モデルの収入(月に四十万円近くの収入)だけで、充分暮らしていけるだけの力はあった」ので、「そのお金には、なるべく手をつけないように」「淳一の自己嘲笑的表現を借りれば "アブク銭の上に成り立っている生活" 」を送っていました。「親には、コレクト・コールで、学校に近い神宮前に引っ越しましたと連絡しておいた」だけでした。

この小説の特徴は、地の文(太字で表示)に対しての圧倒的な分量の注です。

 私と同じ英文科(注:主人公の由利と早苗は、渋谷四丁目にある "七人の敵が居た" 大学に通っていると思われます。)で、同じテニス同好会(注:由利とは違って、共学の大学に入れなかった「一流」女子大の生徒さんは、「銘柄」大学の学生さんと一緒に、仲よしテニス同好会で、形ばかりのテニス練習をします。最初は、処女のように潔く、後には娼婦のように深くお付き合いをなさいます。)に入っている早苗は、洗足(注:東京急行目蒲線沿いにある目黒区の地名。三越バラエティ・ストアもあり、目蒲線沿線では品の良い住宅街といえましょう。)にコーポラス(注:アパートというと四畳半ソング的イメージとなります。コーポラスと言うと、なんとなく、クリスタルでしょ、という作者一流の苦心の表れです)を借りて一人で住んでいる。いつも、バークレー(注:原宿にあるトラッド・ショップ。男物と女物両方を扱っておりますので、ペア・ルックで自己顕示をなさりたいという、お付き合い始めのカップルの方々にお薦めの店。お値段もお手頃ですから、普段着にどうぞ。)かシップス(注:銀座にあるトラッド・ショップ。前項のバークレーや、この店をはじめ、原宿にあるクルーズ、シーズ、カヌーといったトラッド・ショップのローマ字店名入りトレーナーは、トラッドな服装をしない少年少女諸君も、しばし後生大事にきていることがあります。)のトレーナーに、クレージュ(注:1965年、ミニ・スカートで注目されたアンドレ・クレージュは、南フランス生まれで土木工学科出身の異色デザイナー。ジスカールデスタン大統領夫妻ご愛用ブランド。なぜか日本では、パステル調の原色セーターと、お弁当箱型バッグのみ人気が集中。)のお弁当箱みたいなバッグを持って、ミハマ(注:横浜は元町にあるくつ屋さん。カッター・シューズと呼ばれるカカトがペッチャンコな "ペチャぐつ" によって、今や、全国津々浦々のJ・Jガール志望の少女に熱烈人気)のペチャンコぐつに丸いボンボンの付いたハイ・ソックス(注:ひとつ付いているだけでは満足できず、自分でもうひとつ付けて、自慢気に歩く高校生も、下北沢や自由が丘では時たまお目にかかります)をはいている。
 (中略)エレッセ(注:フィラ・マジアとともに若者に人気のあるテニス・ウェア・ブランド御三家。タッキーニ、H.C.C、クリス・エバートが、これに続いて進撃中。ヤマハも後発ながら、"ヤマハ一流のマーケティング" で、がんばっています。)のシャツに、ナイキのスニーカー(注:早い話が、ナイキ・ラインと呼ばれるライン入りのズックぐつです。)とコーデュロイ・パンツを合わせたテニス坊やたちが、彼女の親衛隊を形成している。
『なんとなく、クリスタル』田中康夫著 河出文庫 p.18より
 昨日の晩、私は江美子と一緒に六本木のディスコに遊びに出かけた。
(中略)キサナドゥは、ウイークデーだというのに、相変らず混んでいた。
 マンシング
(注:ゴルフ、テニス・ウェアのブランド)のシャツを着て、ダブル・ニットのパンツ(注:ゴルフ用パンツ独得の織り方を指します。通常、L字型ポケットです。)をはいたゴルフ坊やみたいな男の子や、ファラ・フォーセット(注:米国の女優。長い髪と青いアイ・シャドーが女子学生に人気の理由です)のような髪をしたエレガンス(注:通常、ブランド物を多く身につけた女子学生のファッションを指します。)や、サーファー・スタイル(注:本当にサーフィンの好きな少年は、いい子もいるのです。その他の目的があってサーフィンをやる少年が、一番クセ者です。)の女の子で一杯のこのディスコは、江美子のお気に入りだ。
 他のディスコと違って、学生が際立って多い、それも、上手に遊び慣れた子たちが集まるから、ハデな雰囲気がある。言ってみれば、ポパイ少年(注:平凡出版発行の『ポパイ』のコンセプトに合った若者を指します)とJ・Jガール(注:光文社発行の『J・J』のコンセプトに合った女の子を指します。今や「ごく普通の女子大生」が見る雑誌に成り下がりました。)のディスコといったところだった。
『なんとなく、クリスタル』田中康夫著 河出文庫 p.30−32より

この時代を生きた私には、ひとつひとつの「注」のついた固有名詞を目にするだけで、あの時代の風が音を立てて、この令和の時代にも吹き込んでくるのを感じます。

シップスのトレーナーといえばA子の顔が、クレージュのバッグといえばB子の顔が、ミハマの靴といえばC子の顔が自然に浮かんできます。エレッセに至っては、私の初めて買ったスキーウェアのブランドで、オフコンバイトの時に、寒かったコンピュータルームでも大活躍しました(050.オフコンバイト)。

キサナドゥには、みんなで何度も遊びに行ったし、ファラ・フォーセットの髪型を真似て「シロウトモネ」をやっていた友人のことは以前にも書きました(041.シャンプー・リンス  )。みんな「JJ」や「ポパイ」をバイブルのように小脇に抱えていました。

その上、このような風潮は身を包むファッションだけにとどまらず、買い物やレストランなどの食生活にも及んでいました。

 野菜や肉を買うなら、青山(注:南青山三丁目に住みたいなんて、ちょっとした人の前では恥ずかしいから、言わない方がいいです。)の紀ノ国屋(注:青山五丁目交差点角にある高級スーパーマーケット。)がいいし、魚だったら広尾(注:渋谷区にある地名。通常、港区南麻布四丁目、五丁目付近も広尾と呼んでいます。)の明治屋(注:六本木、二子玉川にもあるスーパー・マーケット。)か、少し遠くても築地(注:中央区の地名。中央卸売市場があります。)まで行ってしまう。パンなら、散歩がてらに代官山(注:通常、渋谷区猿楽町、代官山町と目黒区青葉台一丁目の一部を指します。高級マンションと、昔のマンションー同潤会アパートがあります。)のシェ・リュイ(注:パンとケーキのおいしさでは定評があります。麻布仙台坂、駒場東大裏の富ヶ谷にも支店があります。)まで買いに行く。
 ケーキは、六本木のルコント(注:フランス人、A.ルコント氏の経営するケーキ屋。南青山三丁目の新青山ビルにも出店があります。このところ、サービスと味が急激に落ちてますから、あんまり、規模を大きくなさらぬよう……。)か、銀座のエルドール(注:テイク・アウトのみのケーキ屋さん。値段は少し張りますが、期待は裏切られません。)で買ってみる。学校の子たちと一緒なら、六本木のエスト(注:乱暴なサービスがいいというファンもいる。東京大学生産技術研究所そばのカフェ。)や乃木坂(注:乃木神社がある乃木坂にも、最近はずいぶんとお店が増えてきました。)にできたカプッチョ(注:少しばかりテイストレスなケーキがおいしい、という人もいるカフェ。アルファ・キュービックのブランド "フェイバリット" を扱うショップも付属しています。)の、大きなアメリカン・タイプのケーキ(注:J・Jガールは味覚が発達していないため、タルトの上品さを理解できません。それで、ホーム・メイド・ケーキと称するゴテッとしたボリュームのあるのを好みます。)を食べに行くのがいい。淳一と一緒の時は、少し上品に高樹町(注:首都高速三号線ができる前は、静かなお屋敷町だった南青山六丁目、七丁目の旧称。)のルポゼ(注:薬剤師みたいな白衣を着た従業員がいて、小さくてカリカリとしたパイを焼いてくれます。なんともペダンティックな雰囲気が「クロワッサン」あたりを読みそうな人に似合います。)で、パイにトライしてみる。
 夜中にケーキを食べに出かけるなら、青山三丁目(注:南青山三丁目のことです。)のキャンティ(注:イタリア料理のトラットリア。飯倉本店は、「芸能人」「知識人」お好みのお店です。)で、白ワインと一緒に食べるのがいいだろう。キラー通り(注:青山墓地下から、青山三丁目交差点を通り、千駄ヶ谷へ抜ける道。環状四号線の別称。スポーツ・ショップ、メンズ・ショップ、レディス・ショップが多くあります。なぜ、キラー通りと呼ぶかについては、諸説粉々で統一見解がまだ出ていません。)沿いにあるサンフランシスコ・フレーバーのお店、スエンセンズ(注:アール・スエンセンズ氏が、サンフランシスコに開いたアイス・クリーム店の日本第一号店)で大きなアイスクリーム(注:ジ・アースクェークと呼ばれる大きなパフェは、八種類のアイスに、アーモンド、ホイップクリーム、チェリーを添えてあります。)を食べてから、おなかをこわさないかなと心配しながら帰るのもいい。
 特別な日には、フランス料理を食べに行く。六本木なら、古株のイル・ド・フランス(注:六本木三丁目のドンクの地下にある。商売上手なビストロ。)や新しくできたオー・シ・ザアーブル(注:おいしいヌーベル・キュイジーヌ・フランセーズを食べさせてくれる六本木七丁目のビストロ。)。私のバースデーなら、天現寺橋(注:慶應幼稚舎付近の明治通りと環状四号線の交差点横には、古川という川が流れています。)のプティ・ポワン(注:車の騒音をなんとかして下さいね、のビストロ。)まで行って、デザートにおいしいケーキを二つ食べてしまうのもいい。聖心(注:心身共に、真のセイクリッド・ハートの持ち主をお育て下さいませ。)や女学館(注:制服が、可愛いな、の東京女学館。別称、館(やかた)。高度経済成長の波に乗って、物質的 "アッパー・ミドル" となれた、個人経営 "実業家" のお父様、お母様、熱烈憧れの女子校です。)の横を散歩しながらコーポラスまで帰ってくれば、おなかのへこみ具合もちょうど良くなる。
『なんとなく、クリスタル』田中康夫著 河出文庫 p.44−46より

当時、賛否両論の「否」の大部分が指摘していた「軽薄でブランドばかり追いかけている女子大生」が見事なまでに描かれています。しかし、このようなブランド信仰は、知らず知らずのうちに、けれども確実に一般庶民の生活にまで影響を及ぼしていきました。

先日、061.フランス語学習で、授業のあと、「乃木坂のお店にいたらTBSのザ・ベストテンの出演が終わった歌手がやってきたりと夜遊びしたのも楽しい思い出です」と書いたばかりですが、このお店というのは、田中康夫が次のように注をつけた「カプッチョ」のことでした。「注:少しばかりテイストレスなケーキがおいしい、という人もいるカフェ。アルファ・キュービックのブランド "フェイバリット" を扱うショップも付属しています」。

そして、その時注文していたケーキは、同じく注で「J・Jガールは味覚が発達していないため、タルトの上品さを理解できません。それで、ホーム・メイド・ケーキと称するゴテッとしたボリュームのあるのを好みます」と揶揄している大きなアメリカン・タイプのケーキでした。お店の名前もすっかり忘れていましたが、この文章を読むと食べたケーキまでが目の前に蘇ってきました。

私のように学生時代はアルバイトにいそしみ、就職してからは勤務後に語学学校に通うような者にまで、この時代の空気は及んでいました。というより私たち全体が時代の空気に覆われていたといった方が正確かもしれません。

田中康夫は、そういう私たち庶民のことを見下している表現を多く使用していますが、スノッブを気取っていた主人公・由利のような暮らしを半分妬みながらもアブク銭をブランド品に費やしている彼女らを、庶民の方でも見下していたのでお互い様といったところです。

それにしてもこの本が書かれてから四十年後の今、ここに引用したお店やレストランは、明治屋などほんのわずかな例外を除いて、ほぼすべてのお店は閉店したか、移転してしまったことに驚きを禁じえません。商売の難しさを改めて感じさせられますが、何しろ中央卸売市場までもが築地から豊洲に移転してしまったのですから、時代の趨勢というものなのでしょうか。

◇ ◇ ◇

この小説は、何か事件が起きるとか、あらすじのようなものが特にあるわけでなく、ただただ当時の世相の描写が続く小説でした。この小説の主役は紛れもない「注」でした。

「注」の中には、「ブランドに弱いんだよね。……日本人全体がそうなのかな」につけられた注のように、「この小説の登場人物はマネキン人形で、中身が空洞だ、という「文芸」評論家だって、学歴や肩書きというブランドにこだわる人です。この小説には生活がない、という「文芸」記者だって、新聞社のバッヂというブランドを取りはずしたら、タダの人です。」という風刺をきかせた「注」もありました。

また、「NHK放送センター」の「注」のように「注:"大日本帝国" のタクシー(大和、日本交通、帝都、国際)の四社以外のタクシーは、客待ちをお断りしています。開かれた国営放送局、皆様のNHKからのお知らせでした。」などというものもありました。

描写される対象は、ファッション、食生活のみならず、主人公たちが通う大学など学校描写にも及びました。登場人物たちの学校は次のように描かれています。まずは主人公由利と一緒に暮らしている淳一の生育環境です。

(前略)彼は私と同様に、かなり恵まれた環境に育ってきている。
 幼稚園から大学まで一貫して、今の学校に通っていた。私の住んでいた豪徳寺から幾つか先の駅が、彼の通う学校
(注:この大学に入ったからといって、誰でも俳優になれるわけではありません。)のある街だった。
『なんとなく、クリスタル』田中康夫著 河出文庫 p.140より

主人公由利に、ディスコで声をかけてきた正隆の学校は次の通りです。

 ユーミン(注:歩六分洋996DK8東南角眺陽秀十階建七階築二年冷暖付閑静環秀即入可といったイメージが、ありそうだと思いませんか?)のダンナ様として知られる、アレンジャーの松任谷正隆(注:銀行マンの家庭に生まれた彼は、音楽関係者には珍しいくらいの性格のよさで、知られています。)さんと、同じ字を書くという彼は、池袋にある大学(注:全体では、まだ、男子学生の数が多いから、セントポールというのでしょうか)の二年生だった。中学から付属校なのだという。そういわれてみると、彼にはなんとなくボンボンっぽいところがあるようだった。
『なんとなく、クリスタル』田中康夫著 河出文庫 p.76より

その他、次のような描写も冒頭から繰り出されます。

 直美の紹介で、去年の夏に知り合った、ヨット・マンの男の子たちがいる。名まえを聞けば女の子たちが「キャーッ。」といいそうな、私大(注:女の子が「キャーッ」という大学といえば、当然港区にある大学。)のヨット部(注:「キャーッ」といわれる私大のヨット同好会は、SEXのことしか考えないパープリン少年ばかりですが、体育会のヨット部は、質実剛健な連中が多いことで知られています。)に入っている彼らは航空会社に勤めている直美のおにいちゃまの、後輩に当たる。
『なんとなく、クリスタル』田中康夫著 河出文庫 p..24より
(前略)彼らはとても落ち着いた感じがする。中学や高校から付属校育ち(注:せめて小学校くらいは、いろんな家庭の子供が集まる公立小学校で過ごした方が、世間知らずにならずに済むというものです)という子が大部分なせいか、適当にノーブル(注:noble 一億総中産階級国家に、ノーブルなお方なんて、そうザラにはおりません。)で、ディレッタント(注:dilettante ここでは、色々と趣味が豊富だという、いい意味で使っています)だ。といって、付属校上がりの男の子によく見られる、フニャッとしてたり、オツムが弱いような感じがない。
『なんとなく、クリスタル』田中康夫著 河出文庫 p.26より

正隆が女性遍歴を語るシーンでは、このように描かれます。

 それは、目白にある女子大(注:どうしても入りたいのなら、家政学部が狙い目です。)に通う彼のおねえさんの友だちで、彼が高校三年の時からの関係だという。(中略)
 「その頃はね、市ヶ谷にある女子校(朝の飯田橋、市ヶ谷、四ツ谷は、石川町に優るとも劣らぬ女子校生軍団大行進の駅です)に通うガール・フレンドがいたんだ。(後略)
『なんとなく、クリスタル』田中康夫著 河出文庫 p.112より

一方、主人公の同居人・淳一の台詞を借りれば次のようになります。

(前略)"あら、ごきげんよう" (注:靖国神社付近、白々しくもこんなお言葉遣いの女子校がございます。優秀な生徒さんは、外の大学へ行ってしまうというこの高校の大学は、自称、「名門」女子大だそうで、グリーン車(緑色の電車)で新宿から十個めの駅、下車です。)なんて、品のいい女子校の生徒みたいなあいさつなんて、できませんよ。——
『なんとなく、クリスタル』田中康夫著 河出文庫 p.150より

明治以来、学歴社会の頂点には帝国大学があり、一中一高帝大のような流れがありましたが、この小説が書かれた頃の都心にある私立の付属中学、付属高校、そして大学名が記号化されていく世相が描かれていきます。

かつて高校や大学教育を受けることができなかった親世代が、せめて我が子には高等教育をと願ったのと同じように、その子が親世代になると、今度は我が子を豊かさを享受できる者だけが通うブランド私立学校へ付属校から入れたいと願うようになりました。そして、この時代の学校に対する空気は、今日まで持続しているように私は感じています。

私自身は東京の郊外で小中高と公立の学校を卒業して、都心部の私立大学に入学しましたが、入学して初めて、都心部にそのような私立大学付属校の記号的意味があることを知らされて、驚いたり感心したりした記憶があります。あの頃は、1967年に導入された学校群の影響のため、都心部ではかつて名門校と呼ばれた公立高校は凋落したと言われていました。

平成の三十年を経た令和の今日も、都心部の子どもたちの多くは、「お受験」「中受」と呼ばれる私立小学校や中高一貫教育の私立中学の受験を目指し、幼い頃からお教室や塾に通っていることは周知の通りです。

◇ ◇ ◇

『なんとなく、クリスタル』の最後は、唐突に「人口問題審議会の『出生力動向に関する特別委員会報告』」と、「五十四年度厚生行政年次報告書(五十五年版厚生白書)」の数字が投げ出されるように掲載されて、この小説は幕を閉じます。

◎人口問題審議会の「出生力動向に関する特別委員会報告」
①出生率の低下は、今後もしばらく続くが、80年代は上昇基調に転ずる可能性もある。
②しかし出生率が上昇しても、人口を現状維持するまでには回復せず、将来人口の漸減化傾向は免れない。

合計特殊出生率=一人の女子が出産年齢(15歳ー49歳)の間に何人の子供を産むかという率
1975ー1.91人
1979ー1.77人
(合計特殊出生率が、仮に、2.1人で推移した場合、2025年人口の増減がストップする、静止人口の状態になるといわれている)

◎「五十四年度厚生行政年次報告書(五十五年版厚生白書)」
65歳以上の老年人口比率
1979年 8.9%
1990年 11%(予想)
2000年 14.3%(予想)
(国連が定義した「高齢化した社会」とは老年人口比率が7%以上の場合を指す)
厚生年金の保険料
1979年 月収の10.6%
2000年 月収の20%程度(予想)
2020年 月収の35%程度(予想)
『なんとなく、クリスタル』田中康夫著 河出文庫 p.226より (読みやすさに配慮して漢数字は算用数字に表記を改めました)

ちなみに、内閣府のデータによれば、2019年の合計特殊出生率は、1.36であり、総務省統計局のデータによれば2019年の65歳以上の高齢者人口の総人口に占める割合は28.4%、日本年金機構のデータによれば、厚生年金保険料率は平成29年(2017年)9月より18.3%で固定されています。

『なんとなく、クリスタル』は、初版本を買って読んだ記憶がありますが、私にはこの本の持つ意味があまり良くわかっていませんでした。評論家江藤淳が絶賛したという評判でしたが、私にはある種のカタログ本のようにしか捉えることができませんでした。

今、手元にある河出文庫の『なんとなく、クリスタル』には高橋源一郎の解説 唯一無二がつけられています。冒頭から絶賛です。

 これまで、『なんとなく、クリスタル』を何度呼んだだろうか。その度に、最初に読んだ時のショックを思い出す。これは、ほんとうに、ほんとうにすごい小説だ。そのことを、これから初めて読む人たちにわかってもらえると嬉しい。
『なんとなく、クリスタル』田中康夫著 河出文庫 p.234より

この小説のタイトルにもなった「なんとなく、クリスタル」という表現は、主人公が情事に及んだ正隆と、ホテルを出るまでの間に交わした会話に出てきます。それは次の通りです。

「クリスタル(注:crystal)か……。ねぇ、今思ったんだけどさ、僕らって、青春とはなにか! 恋愛とはなにか! なんて、哲学少年みたいに考えたことってないんじゃない? 本もあんまし読んでないし(注:いくら、本を読んでいたって、自分自身の考え方を確立できない頭の曇った人が一杯いますもの。本なんて、無理に読むことないですよ)、バカみたいになって一つのことに熱中することもないと思わない? でも、頭の中は空っぽでもないし、曇ってもいないよね。醒めき切っているわけでもないし、湿った感じじゃもちろんないし。それに、人の意見をそのまま鵜呑みにするほど、単純でもないしさ。」
『なんとなく、クリスタル』田中康夫著 河出文庫 p.130−132より

そして、高橋源一郎はこの部分の引用に引き続いて次のように書きます。

 簡単に言うなら、「近代文学」とは「青春とは何か! 恋愛とは何か!」と考えることだった。そのように考える者たちの物語が「文学」だった。そして、「文学」は、そのような本を読むことで、「自分自身の考え方を確立できる」と教えてきたのである。
 だとするなら、ここにあるのは、「文学」という形をとった「文学批判」なのではないだろうか。
 いまから三十三年前、『なんとなく、クリスタル』を初めて読んだ時、ぼくは、二つの矛盾する感想を抱いた。それは、まず、こんな小説は今まで一つも読んだことがない、というものだった。もう一つは、けれども、このようなものをどこかで一度読んだことがある、というものだった。そして、ぼくは気づいた。この感想はどちらも正しいのだ。なぜなら、このような小説はいままで読んだことはなかったが、このような本なら読んだことがあったからである。
 それは、カール・マルクスの『資本論』だ。

 マルクスの『資本論』は、ぼくたちが生きている世界、資本主義社会の経済を徹底的に分析しようとした最初で最大の本だ。だが、マルクスは、『資本論』を「経済学」の本とは考えなかった。彼は、『資本論』を「経済学批判」の本と考えたのだ。それまでのすべての経済学者たちは、資本主義社会を「解釈」しようとしてきた。「経済学」とは、そういうものだったそのことを疑う者はいなかった。だが、マルクスは違った。「経済学」が、目の前にある社会の仕組みを「解釈」するだけなら、そんなものは要らない。必要なのは、それを「変える」ことではないのか。だとするなら、自分が書くものは「経済学」の本ではなく、「経済学批判」の本なのだ、と。
 その特徴は、『資本論』における「本文」と「注」の関係にある。右側の、この社会の仕組みを冷静に「解釈」する本文に対し、左側の注では、その実例が熱をこめて語られるのだ。(たとえば、「それでなくてもこの抵抗は、機械による労働の容易に見える外観と、従順な婦人児童要素とによって、減らされているのである」という「分析」には、ある工場監督官の「婦人労働者の中には、何週間も続けて、わずか数日を除けば、二時間以下の食事時間で、朝の六時から夜中の十二時まで働かされる婦人があり、かくして、彼女らにとって週のうち五日間は、家への往復とベッドに休むために、一日の二四時間のうち六時間しか残らない。」といったことばが「注」としてつけられる、といった具合に)。
『なんとなく、クリスタル』田中康夫著 河出文庫 p.237−239より

今回、女性誌「JJ」の休刊のニュースから、あの時代を思い起こしているうちに、どうしても『なんとなく、クリスタル』を読み返したくなったと思った理由が、ここに述べられていたようで驚きました。まさにあの時代の実例や空気が熱をこめて語られている本だったからなのでしょう。

◇ ◇ ◇

フランスの社会学者ボードリヤールは、『なんとなく、クリスタル』が書かれるちょうど十年前の1970年に『消費社会の神話と構造』を著し、その中で次のように述べています。

 したがって、資本主義の下で生産性が加速度的に上昇する過程全体の歴史で到達点ともいうべき消費の時代は、根源的な疎外の時代でもあるのだ。商品の論理が一般化し、今や労働過程や物資的生産物だけでなく、文化全体、性行動、人間関係、幻覚、個人的衝動までを支配している。すべてがこの論理に従属させられているわけだが、それは単にすべての機能と欲求が客体化され、利潤との関係において操作されるという意味ばかりでなく、すべてが見世物化される、つまり消費可能なイメージや記号やモデルとして喚起・誘発・編成されるというもっと深い意味をもつ事実なのである。
(中略)
消費の一般的過程では、魂も影も分身も鏡に映った像も失われてしまった。存在そのものの矛盾も、存在と外観の対立もない。記号の発信と受信があるばかりだ。そして個としての存在は記号の組み合わせと計算のなかで消滅する……消費的人間は自分自身の欲求と自分の労働の生産物を直視することもなければ、自分自身の像と向かい合うこともない。彼は自分で並べた記号の内部に存在するのである。超越性も目的性も目標ももはや存在しなくなったこの社会の特徴は、「反省」の不在、自分自身についての遠近法の不在だ。したがって、富と栄光を手に入れるためにファウスト的契約を交わすべき相手である悪魔のような不吉な審級も存在しない。なぜなら、それらは母性的で幸福な雰囲気つまり豊かな社会そのものによってはじめから与えられているのだから。あるいはまた、社会(ソシエテ)全体が有限責任の株式会社(ソシエテ・アノニム)となって悪魔と契約を交わし、豊かさと引き換えに一切の超越性と目的性を売り渡してしまったので、今や目的の不在に悩まされていると考えるべきだろう。
『消費社会の神話と構造』〈普及版〉1995年 ジャン・ボードリヤール著 今村仁司・塚原史訳  P.302−303 (太字は原文では傍点)

浅学なため、私がボードリヤールを初めて読んだのは2000年代に入ってからでしたが、初めてこの本を読んだ時、私は後頭部を大きな木槌でドンと叩かれたような気分になりました。私が生きてきた時代が、まさしくここで批判されていました。

二十年、三十年経って振り返ってみて、初めて気づくような消費社会について、まるで預言者のように1970年に著していたとは本当に驚きました。私が十代、二十代、そして三十代を送った日々は、誰も彼もがこれまでに経験したことのないような消費行動に駆り立てられ、その消費行動自体が記号化されていき、それはあらゆるものに伝播していきました。

私自身、子ども頃は祖母や母の手作りの料理、手作りの服などに何よりの価値がありましたが、いつの間にか記号化されたお店やブランドにその価値が移行してきたと思います。018.郷愁のクリスマスケーキでも書きましたが、子どもの頃から「かかりつけ」だったケーキ屋さんから、カプッチョなど都心のブランドケーキ店にその信仰を変えていました。

尚、フランス語で株式会社を表すソシエテ・アノニムという言葉のアノニムは、英語のアノニムと同じ「匿名の」を意味します。

 消費社会が以前の社会とは違ってもはや神話を生み出さなくなったのはなぜだろうか。消費社会そのものが消費社会についての神話となっているからである。魂と引き換えに金と富をもたらした悪魔にむきだしの豊かさが、そして悪魔との契約に豊かさの約束がとってかわったのだ。悪魔の最も悪魔的なところは悪魔が実際に存在していることでは決してなく、そう信じこませることだったのと同じように、豊かさは現実には存在していないのだが、この豊かさが有効な神話となるためにはその存在を信じこませさえすればよいのである。
『消費社会の神話と構造』〈普及版〉1995年 ジャン・ボードリヤール著 今村仁司・塚原史訳  P.304 (太字は原文では傍点)

◇ ◇ ◇

女性誌「JJ」が休刊の理由は、決して「ターゲットとなる20代を取り巻く環境、ライフスタイルが大きく様変わりした」ということだけではなく、その背景にあったこれまでの消費社会が、完全に新たな方向へ舵をきったことを意味するのだろうと感じました。

私には「JJ」が「時代の徒花(あだばな)」のように思えてなりません。大きく大輪の花を咲かせ、はなやかな外見を持ち、多くの人々の耳目を集めるけれど、結局は消えていく風俗、文化の徒花。しかしだからこそ、その時代を象徴し、愛おしくて、忘れることのできないのが「時代の徒花」だと思うからです。



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