118.カルピス・サイダー・烏龍茶
本稿は、2019年11月2日に掲載した記事の再録です。
*カルピス
子どもの頃、カルピスはご馳走でした。トクトクトクっと音をさせながら、茶色い大きな瓶を両手で持って、グラスの底にカルピスをちょっぴり多目に注ぎ、氷を入れ、水を注ぎ、カラコロと氷の音を立てながらかき混ぜるのです。
ゴクゴクッと飲んでしまいたい気持ちと、もったいないからチビチビと飲みたい気持ちがないまぜになって困りながら飲んだものでした。飲んだあとに舌にカルピスの残骸が残るのも楽しみのひとつでした。
カルピスは、白いカルピス以外にも、オレンジ味やグレープ味があって、お客さんの手土産がカルピスセットだと、どれから飲んでいいかわからなくて、真剣に悩みました。フルーツカルピスは、私の中ではピンク色と緑色をしたお素麺と同じ位置づけでした。
カルピスに似たような飲み物もありました。濃縮された液を水で薄めて飲むのは共通ですが、味が少しずつ違っていました。不二家のハイカップだったか、森永コーラスだったか、「シールを三枚集めて送ればもれなく黄金バットマントが当たる」というので、集めてポストに入れて楽しみにしていたのに、いつまで待ってもマントは送られてきませんでした。そのことをお友だちに話したら、「もれなく」なのに漏れちゃったんだね!と言われて、「もれなく」ってそういう意味なのかと驚きました。
おまけはなくてもカルピスには特別感がありました。水玉模様の皺のよった包み紙、帽子をかぶった目の青いお洒落な黒人がストローでカルピスを飲んでいるロゴマーク、「初恋の味」というキャッチフレーズなど、今日でいうところのブランド戦略が当時から成功していたからだと思います。
*牛乳
子どもの頃の飲み物といえば、なんといっても牛乳屋さんが配達してくれる瓶の牛乳でした。新聞屋さんと牛乳屋さんとどっちが先に来るのか、早起きして待ち伏せしていたこともあります。
私の家では一日置きにヨーグルトも配達してもらっていました。瓶は洗って元の場所に置いておくと、翌日新しい牛乳やヨーグルトに変わっていました。あの頃食べた瓶入りの甘酸っぱいヨーグルトが時折懐かしくてたまらなくなります。
祖父母の家に行くと、お風呂屋さんに連れていってもらえました。その時の楽しみは、もうなんといってもお風呂上がりに買ってもらえる飲み物でした。コーヒー牛乳にしようか、フルーツ牛乳にしようか、それはそれは小さな子どもの大きな悩みでした。
牛乳瓶の飲み口は青やピンクの色のついた薄いビニールで覆われていて、その下に厚紙で蓋がされていました。小型の千枚通しのような「牛乳瓶の蓋開け」があって、それで直接蓋に穴を開けて、テコの要領で開けるのが一般的でした。けれども子どもは危ないので、家ではまずビニールをはがして、次に丸い厚紙の端っこについている小さな突起を引っ張って蓋を取っていました。
お風呂屋さんにいくと、大人の男の人などは薄いビニールの上から直接刺してグイッと開けていました。私もお風呂屋さんではブスリと蓋を開けましたが、いきなりビニールの上から刺してはお行儀が悪いのではないかと心配して、私はいちいちビニールをはがしていました。
両脚を肩幅に開いて、腰に手を当てて、牛乳を一気に飲み干すというのは、かなり大きくなってから知った「作法」で、子どもの頃には見た覚えはありませんでした。
今思うと、唇に直接触れる牛乳瓶のひんやりとした触感が、おいしさを倍増させていたように思います。
*麦茶
牛乳よりももっと普段着の飲み物といえば麦茶でした。どこの家にも黄金色をしたアルマイトの大きなやかんがあって、炒った大麦を直接やかんに入れて盛大に煮出していました。
学校から帰ってきて家中に麦茶の香ばしいかおりが広がっているのも、しばらくして冷蔵庫でガラスポットに入った麦茶が冷えているのも楽しみでした。時々は麦茶に砂糖を入れてもらって飲みました。お友だちの家にいっても、大抵やかんで沸かした麦茶が冷蔵庫で冷やされていました。外でも麦茶に砂糖を入れてもらったことを覚えています。
*瓶入り飲み物
ちょっとしたイベントがあるとオレンジジュースが出てきました。子どもの頃は、バャリースオレンヂとか、「お米屋さんがお届けする」というキャッチフレーズのプラッシーをよく見かけました。どちらのジュースもとてもおいしかったことをよく覚えてます。
当時から大人たちが懐かしがっていたラムネ、夕方の天気予報でヤン坊マン坊と共に大活躍していたリボンちゃんがマスコットだった、リボンシトロンなど色々な飲み物がありましたが、瓶入りの飲み物の王者は、何と言ってもコカ・コーラでした。ブランド戦略といえば、コカ・コーラはブランドだけが商品だと子どもも皆んな知っていたのではないでしょうか。
「♬コッカ・コーラを飲もうよ! ♬コッカ・コーラを冷やしてさ!」「♬スカッとさ〜わやか、コッカ・コ〜ラ〜」というCMソングは日本中津々浦々まで広まっていたように思います。大人たちはまことしやかに「あんなものを飲んだら骨が溶ける」などと言っていましたが、若者を中心に爆発的に浸透していきました。コカ・コーラの仲間のファンタオレンジやファンタグレープも、すぐに人気の飲み物になりました。
小学生の頃までは、ジュースの空き瓶を酒屋さんに持っていくと、一本五円くらいで引き取ってくれました。子どものいいお小遣い稼ぎでした。男の子の中には、その辺に放ったらかしになっている瓶を拾って酒屋さんに持っていく強者もいました。
*チェリオ
小学五年生の頃、子どもの足で30分くらいのところに50メートルのプールがありました。企業が社員の福利厚生用に持っていたものでしたが、平日の午後は近隣の子どもたちに開放されていました。入場料は50円でした。学校のプールでは、浮き輪やビーチボールやボードは禁止でしたが、ここのプールはなんでもOKでした。水泳帽をかぶらなくても良いというのも人気の秘密でした。
学校から帰ると、大急ぎで母に100円玉を貰い、水着に着替えて、その上からワンピースをかぶり、着替えの入った透明なバッグを肩にかけ、ビーチサンダルを突っかけて飛び出して行ったものでした。男の子の中にはバスタオルにゴムを通してもらって、マントのように羽ばたかせてすごい勢いで走っていく子もいました。
プールの中では、当時テレビで大流行だったバレーボールの稲妻サーブを打ち合ったり、トビウオターンの練習をしたり、シンクロナイズドスイミングと称して潜ったり踊ったり、鼻からも口からもさんざん水を飲み、耳に入った水を抜こうとプールサイドでケンケンしたり、プール終了の合図の手振りの鐘が鳴らされるまで、疲れることなく遊び続けました。
夕方、全身がふやけたようになった私たちは、入場料を支払った残りの50円玉を握りしめて売店へ行き、20円でかっぱえびせんの小袋を買い、残りの30円でできたばかりの自動販売機で瓶の飲み物を買ったものでした。
コーラの瓶は196ml、ファンタの瓶は200ml、そしてチェリオの瓶は294mlなどと皆んな目を皿のようにして比較して(細かい数字は間違っているかもしれませんが)、握りしめたお小遣いの使い道を考えたものでした。半世紀前に内容量の数字を見つめていた小学生の背中には、真剣勝負という文字が浮かんでいました。
大抵は一番容量の多いチェリオを選んだ私たちは、まずは自動販売機にくっついている栓抜きで瓶の口金を開け、かっぱえびせんを抱えて、広いグランドへ出て、芝生の上に座り込みました。てんでバラバラな方向を向いている子もあれば、車座になって、まるで一日の仕事を終えた労働者のように乾杯の音をたてて瓶を合わせる子どもたちもいました。
ドライヤーもない時代、濡れた髪を夕風が撫でていきました。ぺこぺこのお腹をかっぱえびせんの塩味とチェリオの甘さで満たしていきました。そして両手両足を大の字に広げてゴロンと仰向けになりました。薄っすらとバラ色に変化していく夕暮れの空を眺めながら、あの頃は一体何を思っていたのでしょうか。
そういえば、ある日、みんなで寝転んでいると、どこからともなく郵便屋さんが現れて、私たちと一緒に芝生に座り込み、一人の子の透明なバッグに書かれた彼女の名前を見ると、「君の住所は何丁目何番地何号でしょう」と言い当てたことがありました。
当の本人はもとより皆んな驚いていると、郵便屋さんというものは、名前を聞けば住所はスラスラでてくるものなのだと言うのです。皆んな次々にフルネームで名を名乗ると、郵便屋さんはよどみなくスラスラと、どの子の住所も当てていくのでした。そうして郵便屋さんは、全員の尊敬の眼差しを一身に浴びて、夕日の中を颯爽と帰っていきました。
*瓶から缶へ
小学生から中学生になる頃、身の回りの飲み物が次第に瓶から缶になっていきました。缶ジュース、缶コーヒー、缶コーラなどです。最初の頃は、缶を開けると、プルトップが缶から外れるので、怪我をしないように注意しなくてはなりませんでした。プルトップを缶の中に入れてしまって飲む子もいました。
コカ・コーラ社のサイトによると、日本で最初に瓶の自動販売機が発売されたのは1962年で、缶の自動販売機が登場したのは1970年でした。1962年は奇しくもレイチェル・カーソンの『沈黙の春』が出版された年であり、1970年は、大阪で万国博覧会が開催された年でした。
中学生になると、ドクターペッパーなる不思議な味の飲み物が登場しました。瓶もありましたが、私が最初に飲んだのは、缶入りのものでした。なんともいえないヘンな味なのに、忘れられない味でした。その頃、大人たちはビールなども缶入り飲料は、缶の味がするから瓶の方がずっとおいしいと言っていました。
中学生の頃は、学校近くのパン屋さんに放課後たむろしながら、片手にジュースの瓶を持って、焼きそばパンや、コロッケパンの買い食いをしていました。食べながら週刊マーガレットに連載されている「ベルサイユのばら」「エースを狙え」「つる姫じゃ〜!」の3点セットを必ず立ち読みしました。毎週毎週欠かさず立ち読みして、帰り道、漫画のセリフを皆んなで芝居のように台詞を言い言い下校しました。箸が転がってもおかしい年頃でした。あの頃の夏は、毎日毎日、光化学スモッグ注意報が発令されていました。
三ツ矢サイダーは、19世紀の明治初期から販売されていて、他の炭酸飲料よりも泡のひと粒ひと粒が大きいように感じていました。その三ツ矢サイダーが1973年から始めたCMは私にとっては衝撃でした(Youtubeはこちら)。大瀧詠一の音楽と透き通るような映像に魅了されました。CMは単に商品のお知らせから、憧れの世界を覗き見る遠眼鏡のような役割に変わっていきました。これまでテレビの歌謡番組で見ていた流行歌とは違い、大瀧詠一やはっぴいえんどのメンバーの作り出す世界に心を鷲掴みにされました。
高校生になってからかもしれませんが、大瀧詠一のLPアルバムに書かれていた住所にファンレターを出したら、翌年のお正月に福生の大瀧詠一本人から年賀状が届いて狂喜乱舞したものでした。
*紙コップと紙パック
通っていた高校にあった飲み物の自動販売機は、紙コップ式のものでした。お金を入れて、商品名とロゴマークが描かれているボタン(そういえば3cmx5cmくらいの大きなボタンが一般的でした)を押すと、自動的にストンと紙コップが落ちてきて、その中にコーラやジュースが注ぎ込まれるというスタイルでした。
コップが出てきて、飲み物が注ぎ込まれる時間がそれなりにかかるので(15秒か20秒くらい)、お昼休みや部活の後などは長蛇の列が出来ていました。それでもこの紙コップスタイルの自動販売機は、学校だけではなく遊園地などでも時々見かけました。
紙コップの自動販売機だけでなく、紙パックの飲料も次第に増えていきました。テトラパックの飲み物が私たちの生活に登場してきたのもこの頃でした。
そういえば学校給食の飲み物にも変遷がありました。小学校1年生、2年生の頃は悪名高き脱脂粉乳でした。今日風に呼べばスキムミルクです。時々はコーヒー味やココア味が出るのが楽しみでした。3年生からは牛乳瓶に変わり、高学年にはテトラパックの牛乳になりました。
高校、大学時代になると、飲み物の種類も増え、CMもどんどん洗練されてきました。喫茶店でコーヒー、紅茶、ウィンナコーヒーなども注文しました。レモンスカッシュやクリームソーダには必ずと言っていいほど缶詰の赤いチェリーがついてきました。そのチェリーの茎を、指を使わず舌先だけでクルリと結べるとキスが上手い証拠だというので、皆んな競ってチェリー結びをしたものでした。
*烏龍茶
1982年、大学を卒業して入社した会社の自動販売機には、見慣れない飲み物がありました。漢字で「烏龍茶」と書いてありますが、読み方がよくわかりませんでした。ふりがなを読むと「ウーロン茶」とありました。飲んでみると、全然甘くないお茶でした。一体何だろうという思いでした。甘くない飲料にお金を出すというのは、これまでの飲料の概念を根本的に変えました。
私はアルコールに弱くて、飲み会などでノンアルコール飲料を頼もうとすると、当時は決まってオレンジジュースで、遠目からもいかにも下戸であるのがバレバレでした。さらに乾杯くらいは、あるいは目上の人から注がれたお酒くらいはちゃんと飲まないと失礼であるという風潮が強い中、オレンジジュースはいかにも目立ちました。でもこの烏龍茶ならば、あたかもウィスキーの水割りのように見えて便利だと思いました。そして正しくその通り、あっという間に日本中で大ヒット商品となりました。
でも初めて自動販売機の前で、新入社員の私たちが不思議そうに「烏龍茶」なるものを飲み、こんな甘くもないお茶を売るなんて一体どういうことなんだろうと首を傾げていたら、同期のひとりが「そのうち緑茶まで自動販売機で売るようになったりしてね」というと、笑いが弾けました。それは水道水を自動販売機で売るのと同じくらい滑稽に思えたからでした。
*ペットボトル登場
私たちが烏龍茶ショックを味わった1982年、初めてコカ・コーラがペットボトル飲料の販売を開始しました。1985年には麒麟麦酒も続き、その後、ペットボトル飲料は、瓶入り、缶入り、紙パック飲料を瞬く間に凌駕していき、私たちの生活スタイルに大きな影響を及ぼす存在になっていきました。
*コーヒーチェーン店
飲料形態で変わったのは容器だけではありません。1980年代になると、街角に必ずあった喫茶店に代わって台頭してきたのがドトールコーヒーを始めとするコーヒーチェーン店でした。1990年代半ばにはスターバックスを筆頭にシアトル系といわれるコーヒーチェーン店も拡がり始めました。2018年、スタバは環境汚染を懸念して2020年までにプラスチック製ストローの全廃を発表しました。
*渡辺のジュースの素
まだ小学校に上がる前に、粉末の渡辺のジュースの素を水で溶いてよく飲みました。直接袋に舐めた指を突っ込んで、指にくっついてきたジュースの素を食べたりして母に叱られたものでした。あれから半世紀以上経ってみて、飲み物の思い出をたどるだけで、人生や社会を振り返るようなことになりました。改めて環境問題を作り出してきた張本人のひとりであったことも痛感しました。
最後に、我が飲み物の原点ともいうべき渡辺のジュースの素のCMをどうぞ!
<再録にあたって>
この稿を書いている時、とっても楽しかったのを思い出しました。今読み返しても、飲み物の思い出は、あの頃の情景と結びついていて懐かしい人々の顔が次々に浮かんできます。
私が子どもの頃は、お金を出して飲み物を買うというのは、大人にとっても子どもにとっても特別なことであって、今日のようにコンビニやスーパーの陳列棚に数々の飲み物が所狭しと並んでいることはありませんでした。でもだからこそ、特別な思い出として記憶されているのかもしれません。
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