見出し画像

言葉を紡ぐ

 打ち明ける必要はないのだが、この通信には私なりに労力と時間をかけている。そもそも、情熱を傾けているので手間暇を惜しむつもりは毛頭ない。伝えたいことを1週間かけて考え、執筆し、その上で数日間「熟成」させる。なぜ、熟成させるのか。
 昭和世代であれば、告白するとき直接言えなければ恋文(ラブレター)なるものを渡す。今なら、ラブメール、否、ラブラインとでもいおうか。恋文を夜中に猛烈な勢いで書き、朝読み返してみると、自分で書いておきながら赤面の至り。その類いとは言えないが、言葉というのは生き物であり、それをどう紡ぐかは甚だ難しい。思っていることをそのまま伝えるとしても、言葉にならないのが正直なところだ。言葉は“ことのは”といい、決して万能ではないから、すべてのことは伝えられない。ましてや、私のように筆が立たず、読書歴も短く、表現の幅が狭く、伝える力が乏しいと、想いを紡ぐことはなかなか容易ではない。だからこそ、何度も読み返すことで、ひとつひとつの言葉を選り抜き、私なりに自分の想いを丁寧に届けられる文章にしようと心がけることがこの「熟成」にあたる。
 ところで、荒井裕樹さんの『まとまらない言葉を生きる』に書かれているのだが、確かに日本語には誰にでも通用する“絶対的なる励ましの言葉”というものは存在しない。例えば、「頑張ってね」という言葉は、頑張っている人からすれば「これ以上どうやって頑張ればいいの」と思うこともあり得る。勿論、もっと努力しなさいよという思いで用いているわけではなく、応援しているよという気持ちの方が強いのではなかろうか。だから、どうしても言葉として発したいときは「頑張っているとは思うけど、頑張ってね」という曖昧な使い方をしてしまう。
 先週、とある先生に「色々頼むね」と言われ、「とんでもない」と返事をした。この言葉は私の中では拒否的ではなく、謙遜として用いたに過ぎない。尊敬する先輩に対して、「勿論です(私ができることであれば、いくらでもやります)」とは素直に返答できなかった。普段はタメ口で喋るわりには、日本語特有(日本古来)ともいえる「謙遜」は美徳みたいなふうにどこかで思い込んでいたのは事実だが、受け取り側に伝わらなければ元も子もない。ようするに、相手が思う心(真意)をどのように汲み取るか、自分なりにどう“翻訳”するか。SNSのようにすぐに情報を発信している、今の文章の在り方を考えると、真意を包み隠さずに素直に伝えるほうが時代の流れなのかもしれない。
 そういう意味では、自分以外の人と私とを繋いでくれるこの通信という媒体は有り難い。インプット過多になりがちなので、アウトプットすることで伝える力を身につけられる。『りんどう珈琲』著者である古川誠さんのように、誰もが知っている言葉を使っても、なぜか心温まったり、奥が深かったりする感じを醸し出せるような文章を書けたらいいなと思う。そのためにも、ただ知識を豊富に持つのではなく、できる範疇で多くのことを経験したり、考えたりして教養人でありたい。そうすることによって、同じ言葉であってもより温かみや深みを持たせて、紡いでいくことができると信じている。

2021.10.1

この記事が参加している募集

オープン学級通信

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?