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原点に戻る

 人生は何が起きるか、誰にも分からない。というよりも、何かを予期できたら、一度きりの人生といえども味気ないし、面白くないだろう。そこに果たして「生きる」意味を見出せるか。
 桜は散るからこそ、儚くて美しい。だから、古から愛され続ける。ずっと桜が咲き続けていたら、美的対象と認識されないかもしれない。ただ、桜は散ることを予め知り得て咲いているはずはない。(とはいえ、そもそも知るという認識を持てているかどうかは不明だが。)つまり、何かをやろうとするときに、まだ何もしていないのに、初めから失敗するかもしれないと思い込み、恐れて、挑戦せずに、回避することばかり考えてしまう。まさに認知的不協和理論で、いくら違う方向に進んでいると分かったとしても、今やっている自分のことを正しいと認知したいがためにひたすら正当化するための理由を探し続ける。間違っていても後戻りはしない。たとえば、テストの点数が良くなかった。その理由は明らかに、自分の勉強不足以外の何物でもない。しかし、自分の存在を否定したくないので、正当化するべく、他に理由を探す。勉強する時間がない、担当の先生が悪い、授業が面白くない、将来この科目は使わない、など。ここに挙げているけれども、決して皆さんを責めるつもりは毛頭ない。でも、将来にとって有益かどうかも分からないし、心のどこかで手放したいと思っているスマホをいじり続ける時間はあるのに、勉強する時間はないという。そういう矛盾に満ちた世界で我々は生きている。何もかも秩序立ててしまえば、ギスギスして、息苦しくなってしまうだろう。
 人は誰しも紆余曲折を経て、成長していく。端から成功している人など一人として存在し得ない。それはどんなに有名な偉人であっても同じだ。日々迷い、悩み、不安になって後ろ向きになることなどは当たり前のこと。だから、いろいろ抱えたときに、本を読んだり、読書会に参加したり、自らの経験を踏まえたりすることから、「原点に戻る」ことの大切さを学んだ。原点に戻るというのは、初心に帰るという意味も含む。もともと自分の中にある、眠っていたものを目覚めさせる感じもある。
 何かを成し遂げようと思ったきっかけが訪れたときのエネルギーが大概にして一番優れているし、感性が研ぎ澄まされていることが多い。「直観」は、逃さずに大切にしたい。これは、積み重ねて、眠っているものが、ふと現れる繊細な感覚。しかも、意外と心地よいものであることが多い。それから、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚である「五感」、それに加えて第六感も大切。情報は目から入ってくることが大概なので、目で捉える視覚だけに頼りすぎることなく、豊かな感性で事物を捉えられた方が素敵な「まなざし」となる。どうしてもまなざしは一面から見るように偏りがちだが、反対から見たり、俯瞰したりすることのできるまなざしが自分の中に生まれたら素晴らしい。

  혹시라도 잘못돼도 절대 너를 탓하지 않아 (STAYC『RUN2U』より)
  もし間違っていても絶対君の責任にしない

🎵 人生相談&哲学対話ほのぼのカフェ 🎵

 初回の授業でありながら、みなさんに今抱えている「問い」を紡いでいただいた。ありがとうございます。個性的で、とても深くて、どれもおもしろい問いで、どこまで向き合えるか分からないが、私なりに言葉を紡いでいこう。勿論、それは問いに対する「答え」ではない。あくまでも、私に舞い降りてきた、「今、ここ」における言葉たち。時間が経てば、考え方も見方も変わる。でも、それでいい。

【Q1】戦争(侵攻、侵略など)についてどう思いますか。
【A】いきなり直球で現実的な問い。しかし、これに対する私の思いをいつかは紡ぐときが来ると思っていた。真剣さながら、ほのぼのと答えることにしよう。
 先週末、4年前に公開された映画『リメンバー・ミー(原題Coco)』を家族で観た。面白かったと娘が言っていたからでもあるが、今回の表題「原点に戻る」にぴったりだなと感じたからだ。これは直観的に一見の価値ありと感じた。
 ≪遠い昔、リヴェラ家の夫が音楽家になる夢を追いかけて家を出てしまい、妻は家族を引き裂いた音楽を嫌い、“音楽禁止の掟”を立て、代々靴屋を引き継ぐ。ママ・ココの曾孫であるミゲルは靴屋を継ぐことを期待されたが、密かにミュージシャンを志していた。死者の日、音楽コンテストで自分の演奏を披露しようとするが、祖母エレナにギターを壊されてしまった。
 音楽に夢中過ぎたミゲルは、家族のことをあまり気にかけていなかった。しかし、死者の国での、家族との冒険を通して、家族の大切に気づく。≫
 I realized! There is nothing more important than family.
 戦争反対という言葉にやや違和感を覚える。確かに戦争をしたいわけではないし、子孫の代も含めて、沖縄戦と同じことをやっていいとは思わない。しかし、それは平和ともいえる日本にいるから思えること。争わないことは正義なのだろうか。映画ではないが、戦うことで守れるものがあると考え、それを正義だと捉える人もいる。外にいる私たちのものさしですべてを推し量ることはできない。実際に、私自身は争いが好みでないので、争いなんてすべてなくなればいいのにと思う。しかし、平和とは一体何だろうか。もし、目の前で大切な人が争いに巻き込まれようとしたらどうするか。見ているだけだろうか。それとも大切な人を守るために戦うだろうか。難しい…。私は家族が悲しい思いをするくらいなら戦うかもしれない。各国では一定のルールは決められているが、それは人間が勝手に決めたこと。あなたの正義がそのまま他者の正義と合致するとは限らない。地球には77億人の人が生きているし、人間の遺伝子には戦うことが狩猟採集時代から見ても組み込まれていることが分かる。どんな生物も、強い遺伝子を残すことが本能であり、性なのである。動物の世界は生き延びるために弱肉強食である。我々もいのちをいただいている。これらをどう考えるか。
 私たちのまなざしで一律に善悪を決めるのはどうだろう。中立的立場(中庸)があってもいい。「三性の理」でいう“無記”でもある。非二元論の話はたびたび書くが、見方により捉え方は変わるが、元は一つ。今や多くの情報が流れるが、すべてが真実ではない。簡単に心理操作できるのが情報だ。だから、安易に信じず、惑わされずに、数多の分野を学習し、五感を通して対話し、調和する心を持てたら素敵ではないか。一つの事物に執着すると思考が止まるので、流れを循環させる中で、いろいろなまなざしをもつことは大切な気がする。

2022.4.11

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