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サブカル大蔵経871砂原茂一『リハビリテーション』(岩波新書)

初期の岩波新書らしい名著。

老舗のカクテルが必ず濃いのを連想しました。

医療そのものに対する大きな問いかけp.1

リハビリは全てに通ずる。

もともとリハビリテーションという言葉は、中世においては領主や教会から破門されたものが許されて復権することを意味した。火あぶりの刑に処せられたジャンヌ・ダルクが20年後復権し、500年経った1920年聖徒の列に加えられ、死去した5月30日が国家的祭日と定められた。これがジャンヌ・ダルクのリハビリテーションと言われるものである。p.59

山岸凉子の描くジャンヌ・ダルクは、『レベレーション』(啓示)。

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「病気・障害」と「健康」の関係。「障害」とは?医学における普遍的な概念としての疾病。病気から離れて、障害の概念が重要性を増してくる。p.14

 病気は治っても、障害は残る。〈治る〉とは?

医学の進歩そのものが障害問題を浮き彫りにした。治ると治らないの振り分けが不可能になり、障害の時期が長く続くようになった。p.14

 〈分別できない〉という考えは、科学を否定することになる。それを医学は恐れているのかもしれないと思いました。

もともと医学の歴史を安静と運動の政権交代の歴史とみなすことも可能であるように思われる。安静の重要さと運動の有効性。通風には乗馬。結核には安静。第二次大戦中、長期の入院困難となり早期復帰の必要性から短縮の試み。リハビリテーション活動が規範となった。現在は安静から運動。p.91

 また安静の時代が来るのかも。

医学の流れの中に科学医学派と物理医学派があった事は述べたが、現代医学を支配しているのは生化学的医学で、ここではいわゆる分子レベルでの研究が盛んに行われている。それに比べると、リハビリテーション医学はほとんど常に丸ごとの人間を相手にしているし、動物実験の有効性もあまり期待できない領域である。p.129

 部分医療に対する丸ごとの医療。

障害は病気よりはもちろん、考え方によっては死よりも苦しい試練であるかもしれない。そして外に現れた障害よりは、障害によってもたらされた自信の喪失の方がしばしばより重大な問題であり、従って価値観の転換こそがリハビリテーションの最も重要な前提であると言っても誇張では無いかもしれない。p.133

 私という人間の回復

何しろ国立の医科大学には正式のリハビリテーション医学の講座は1つもなく、付属の病院や温泉研究所などにリハビリテーション医学の研究資料部門が数カ所あるに過ぎない。p.138

 いかに本書が先駆的であったか。

人間が生きるということは、単に生物的に生きるということではなく、家庭人として社会人として生きることであるべきであると言う観点に立てば、医学的リハビリテーションこそが真に中核的な医学であると言うことも許されよう。p.216

 医学とは。リハビリは医学だけの分野ではないような気がしてきました。宗教もサブカルもリハビリなのかも。

もともとリハビリテーションというのは、障害のために失われた人権を回復することであり、人間が本当の人間となるプロセスである。そして医学は精神的・身体的機能の障害を医療技術によって克服・軽減することによって障害者の復権を援助するのである。p.216

 〈人間が本当の人間となる〉。アイヌ語の、アイヌ・ネノアン・アイヌと同じだ。

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