アウトサイダーアートはいい匂いがして水銀のように魅力的
アウトサイド・ジャパン展(~5/19)に行った。
アート展に行った、なんて言うと、アート好きを公言しているようだけど(いやそんな風に見る人はいないかもしれないけど!)、それは全くの間違いで、たぶん芸術と比べるなら、まだCBテストレポート(特定電気用品PSE適合性検査に提出する試験証明書)の方が理解できるよねえ…!?と悩むほど、わたしは芸術鑑賞に疎い。
絵を見れば油の波が気になる始末。
彫刻を見れば原材料に関心がいく有様。
挙句の果てには自画像を観て、もしカメラがあったらこの絵は無かったのかな、なんてことが気になってしまう。
(ついでに言わせてもらうと、絵を描かないでいられたら1億円あげると言われたら別の仕事をしたのかなとか思うと、もう止まらない)
もちろん、油の波も、原材料も、自画像もすべてその時代に生きた「人」が作ったもので、時間を超えて今わたしが出会えた奇跡には、いたく感動する。
でも素直に白状すると、「絵そのもの」がイマイチよくわからない。
とくに裸体がちりばめられ、羽根の生えた生き物が寄り添ったりするような有名な絵画なんて見た日には、どこからが腕でどこからが衣類なのか、十分に観察しないと判別できない、とおもうけど今は昔よりできるのかもしれない。(ちょっと試したけど宗教画はやっぱりハードルが高い)
わたしにとって絵画は、正体不明だけど宇宙の大部分を占めるダークマターと、とても近い。
そう気付いたのは大人になってからで、社会人の時に美術館デートなるものに誘われて、初めて自分の感覚を知った。
みんなには中性子に見えるのかも知れない。どうしよう。この裸体を前に困惑でしかない。なんで裸なの?裸を観に来たの?どうしたのこの人たちは。空は飛ぶわ、感情の起伏が激しいわ、怒ってるのか悩んでるのか彫が深すぎてわからない。この一画面の中で何が起きているのか、全然ついていけない。
有名絵画を楽しむ人たちを目にすると、自分が高性能機器ではないことを思い知らされた気がした。
つまり、たんじゅんに、とてもさみしい。絵を観ることが。
そのさみしさが共鳴するのか、わからないけど、一方で特定のジャンルの絵に、とても惹かれた。小学低学年のときから、知らないうちにずっとこのジャンルの絵が好きになっていた。そして、つい2か月前に、それらはこぞって、このように呼称されるのだと知った。
アウトサイダーアート
アール・ブリュット
空を飛ぶ裸体の男にポカーンとなったり、わざわざ水を壺に移すシーンを切り取らなくてもよかろうものがと首をかしげたり、謎らしい微笑みよりもひび割れた油絵の具をペリペリめくりたい衝動に駆られる自分であっても、おもしろがれる。アートの前で、「すごい……」と思わずへたり込みそうになる、わたしにとっては唯一のジャンルなのだ。
アウトサイダーアートというジャンルのお陰で、「アートが好きと言える人の国」への移民パスポートを取りに、窓口に行ってもいいよねわたしって、思える。すごくうれしい。
でもなぜアール・ブリュットやアウトサイダーアートばかりに反応してきたのだろう。すぐに答えてみると、作品に作者それぞれの生き様を感じるからなのだとおもう。
生きる為のアートであり、生きているアートというのか。
いや、アートが、生きているから好きなんだ。
うまく言えないし、もちろんわたしの主観なのだけど、どこか切羽詰まり、瀬戸際のギリギリで叫んでいるようなのに、産まれた作品たちは、本能的で野性味に溢れていて、無垢でひたむきで、すごく真摯だ。
その、正直なところが、たまらなく好きだとおもう。
わたしの、アウトサイダーアートへ感じる気持ちは、中学生の頃、理科実験室で水銀に指を突っ込んだときの気持ちと似ている。
「みずがね」とも呼ばれる流動的で鈍色の水銀は、「生きている銀」とも言われている。
ところでビーカーに注がれた水銀に、指を突っ込んだ経験のある人は、どれだけいるのだろう。どうしても他のたとえが浮かばないので、水銀でいく。
油に指を突っ込むんだことなら、経験のある人も多いだろう。油と違って、水銀は指に纏わりつかない。その点はスライムとも違う。水っぽくない。指を押し返すのに、肉感はない。指と水銀の境界線は、やわらかすぎた。水銀に触れても、指の感触だけではとても心もとなくて、実態が掴めない。
ビーカーの中で揺らした鈍色の水餅は、たぷんと蠢いた。夏の海の凝縮された煌めきを内包しながら、たぷんたぷんと観る者の視線をさらう。
水の13倍という水銀の密度は、それを知らなかった中学生のわたしにも、ミクロの世界では、水銀が水とは決定的に異なることが、見るだけでわかった。(のに、さらに指を突っ込んだ。今じゃ考えられないし、多分当時も駄目だったろう理科準備室でのこと)
水銀の粒ひとつひとつは重たく、それゆえわずかな揺らぎでも拾ってしまい、互いの震えを伝播し合うので、結果として水銀の塊は、全く想定しえない不思議な動きをするのだ。
それを「生きている銀」とは、よく言ったものだとおもう。
毒でもある物質だということはよく知っているけど、水銀にはいつまでも眺めていられるような、不思議な魅力があった。
水銀が、たぷんたぷんと蠢くさまに魅力を感じることと、アウトサイダーアートを好きだと感じる気持ちは、わたしの中ではとても似ている。
さてようやく本題へ。アウトサイダーアートの作品を展示した、アウトサイドジャパン展を、ずっと楽しみにしていた。滞在時間(90分)のほとんどを、とある二人の作品の前で、過ごした。
1つは、原 夕希子さんの作品だ。
丸で埋め尽くされたレシートやボールをよく見ると、1つ1つの丸は、形が微妙に違う。書き足しているような丸じゃなく、生まれていくような丸。シャボン玉のように沸いて沸いてボールを覆う。圧巻だった。丸で埋める行為は、なんて欲望に忠実なんだろう、と思った。どこにも省略がない。
2つ目は清掃員画家のガタロさんの作品。
ひたすらトイレ掃除後の雑巾デッサンを張り巡らせた壁には、たまに吐露が書かれている。行き場所がそこにしかなかった、トイレに書き落された言葉のように。でもそれさえも省略しない。
で、この大量の雑巾デッサンの中、一番下に、顔のデッサンがあるのだ。
そういう演出なのかもしれないけど、そのストーリーに、とてもやられてしまった。唸るしかない。
数多くの雑巾に紛れ隠されているように貼られた、友人の横顔だ。
その演出から感じたストーリーはわたしの主観が大いに入っているので、あまり書きたくない。けど、泣けた。なんか演出にしてやられた気もするし、本当にそのための展示だったと言われれば、そう納得もしてしまった。
ひたむきに自分の世界を見続け表し続け『アウトサイダーアート作品』として転生した『アウトサイド・ジャパン』は、悶絶のオンパレードだった。もちろん好き好きがあるので、お2人だけでなく、いいなあ好きだなあと思う作品はたくさんあった。
中には近寄りたくないものもあったけど、それはわたしの価値観がそうさせただけで、来場者は誰もそれぞれの楽しみ方をしていて、それさえも自由にさせるのだから、アウトサイダーアートはすごいんだなとおもった。
アウトサイダーアートを見ていると、もし心を表したらこんな形なのかもしれないって、おもう。
いや、もうこれは言葉なんじゃないだろうか。
言葉を忠実に絵にしたら、きっとみんな、こんな風にあふれてしまう。
一日は、とても一音になんて、納まるものではないのだから。
そうおもうと、ああ勘違いしてはいけないなと、背筋が伸びる想いがする。
どこの角度でも切り取れないままで生きていることを。
登校できない日の子どもが心配だったり
体調不良なのに義母の様子を見に行く夫だとか
先細りの自営を続ける老いた親からの相談だとか
統合失調症の母だとか
いまだに婚約の報告ができないでいる妹だとか
そういった不安と背中合わせの家族たちの背中をなだめたり鼓舞しながら、中学の友達と会ったり、お芝居を観たり、小学校クラス親睦会の計画を立てたりする。同じように家族の中で挟まれて生きている人は、とてもたくさんいるし、いたし、い続けるのだとおもう。悲しきかな。
この家族のにっちもさっちもいかない状況を、全て他人事としてどこか見切りをつけ、将来襲ってくるだろう津波がきたとしても、どうにかして共に生きていくことしか考えない自分を、楽観的すぎて怖いと思う自分もいる。
一方で、迫りくる危機の為には、今から何か出来るのではないかと、対処療法を取ってみたりもする。(たとえば朝登校を今も続けていることもそうだし、自転車で二時間かけて義母の様子を見に行くとか、帰省の度に決算書に目を通すとか、まあやった方がいいだろうことはやってますが、それはあくまで対処療法にすぎないことは、じゅうぶん理解している。結局、当の本人が決断することでしか、公的な強制執行でもない限り、外野が物事を大きく変えることは、とても難しい)
それでも何があっても共に生きていこうと思っていることがブレなくて、生きていてくださいと思っている。
どんな姿でもいいのだから仕方ない。ただ生きていてほしい。と思うときに、あ、これを愛しいって言うのかもしれないなっておもうんだ。
たとえ大多数には雑巾の絵のようだとしても、わたしには雑巾には見えない。
雑巾にしか見えない人がいても、別にいいのだ。
わたしは絵画がわからない。あなたは雑巾にしか見えない。
それで日々がつまらないし不幸だと言ったとしても、絵画にも雑巾にも、悪いところはひとつもない。
それはとても数文字の中に納まる感情ではないし、常に複数のバロメーターが一文字の中に押され合っているからこそ、ようやく成り立つ言葉だったりする。
省略のない世界に美しさを感じるわたしの美意識は、どの人間関係の中にも共通していて、ときに薄情とも呼べるシチュエーションがあることは知っている。
行為が常に文脈であるのなら、その結果がどうかはあまり自分に重要じゃない。親愛を寄せるための条件があるとしたら、それは匂いかもしれない。
文脈にいい匂いがする人が、好きだし、美しいなとおもう。
勘違いしてはいけないな、とやっぱり思うんだ。
元々がシンプルな星の元に生まれていない。
わたしは絵画のわからない国からやってきた外国人で、雑巾が雑巾に見えないし、丸がたくさんあるだけで楽しいと言って、生きている。どう読んでも、今、そうここに書いているし。
日々は交錯するいくつもの色の線となり、交差点を真っ白に光らせる。わたしは目ざとく光を追って歩く。いい匂いを嗅ぐのが好きだから。いつまでも生きていこうと言いながら。
たぶん生まれたときからそうなんだろう。
虚勢の裏にある、美しくてきれいな、正直で野生的な、素直な心のことが、ずっとずっと好きなんだ。
だから、次のアウトサイダーアート展があれば、またいくんだと、思う。
いい匂いがする、あのアートからは。