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あそびをせんとや、うまれけん。

どんな風に希望を見いだしていたんだっけ。
子どもの時から、その希望で
恐らく生き凌いだはずだ。


登校中、集団登校で6年生から入学したてのわたしまで、総勢10名ほどで通っていた朝。
排水溝の溝を歩くマイルールに従い、いつも下を向いて遊んでいた。

その黒は、この線は、踏んではいけない。
そう、歩いてもいい範囲を決めて、その中にだけ足が着くように歩いていたので、毎朝電柱にぶつかっていた。

頭を突然引っ叩かられるような衝撃に、顔を上げると、また、、、という顔がこちらを見ていた。もう教える気もないようだった。

途端遊びから引き戻され、急に世界が小さな6歳の自分から消えた悲しさと、気恥ずかしさに、だらんと下を向いた。

そして下を見るとまたそこには
遊びの世界があって、また自分の世界に没頭した。
登校は表裏一体の紙一重の時間でもあった。

教室には決められた席があり
その中には誰かが選び
いつのまにか自分の名前がついている文具がある。
いつも居心地が悪く感じていた。
全てが別の世界のことのようで、
お客さんのような自分だった。

窓の外では、校舎によって狭められた窮屈な空が青かった。

徐々に学校の中でまたマイルールを作り遊ぶようになったが、遊びはいつも中断され、不完全燃焼で終えた。


みんなが授業中の、だれもいない廊下と、階段が好きだった。

上にも下にも誰もいない階段で自由に上がれた。
二段飛ばしや手すりで滑り落ち、階層ごとに違う歌を聴いた。

二階の階段の上には図書室があり、その一角に分厚い名作集だけが並んで、誰も手をつけていない真新しい本が並ぶのを数えた。
貸出カードのマスが空っぽの本を好んで借りた。
わたしのための本がある、と、図書室の住人に感謝して持ち帰った。

帰宅途中はよく草を食べて歩いた。
田舎の道にはまだ椎の実、木苺、枇杷、松の実、グミの実がたまに見つかったが、口にしたほとんどは名も知らない草だったようにおもう。

群生する場所の一つ一つに愛着があり、四季折々の顔と味を確かめて歩いた。
それらの草や実に見送られて家まで無事に着いた。ヘンデルとグレーテルのパンくずに近い。



希望、という名のつく何かが、目に見えない。
ハウルを見つけたときは、希望だったのだろうか。

その語彙の意味を自分なりに理解するとしたら、川に頭だけを出した岩のようなものだと思う。
その岩まで飛べたらいい、振り返るとさっきまでいた岩が苔に覆われた滑りやすいものだったと知って、あぁ今度は大丈夫だ、と、今の足場を確認している。

ん?結局岩場を比較することで安心するのであれば、永遠に岩場を探し続ける必要があるのではないか。

ああそうか、必ず岩場は出て、それを必ず見つけられると頑なに信じている

信じ続けた結果がいまの場所で、そこが一番気に入っていたけど、また気に入らなくなったのだ。
これ以上の岩場なんてない、とどこかで思う。
ここにいたい。
でもきっと岩場を見つけて、そこに飛び乗る。


それはわたしだけのルールで行われる、永遠に繰り返される秘密の遊びで、もう自分でも止めることなどできない。