母からの遺品
前半の人生で最も立ちはだかった壁は 母であった。
母の未熟さを仕方がなかったと諦め
この人なりにわたしを愛してくれたんだと
分かった日のこと。
母は数年前に措置入院をせざるを得ない
酷い鬱を発症したが、
元々その傾向はわたしが物心つく前後からあった。
大人になってから親戚周りの話を聞いて納得した。
母は結婚によって、幼少時から抱える孤独を
紛らわそうとした。
しかし結婚当初から夫と、その家族問題を抱え
困難だらけの人生を選んだのだ。
わたしは物心つく頃には母の相談相手であった。
しかしわたし自身の相談はしなかった。その代わり、たまに母と手が触れるのがとても嬉しかったのを覚えてる。この人にわたしを愛することはきっと難しい。でも愛を確認するために、たまに、手を触れる。
温かさを母の愛だとおもった。そんな親娘関係であった。
もう10年近く前、仕事中に妹からSOSがきた。
帰ってきて、おねえ。お母さんが死んじゃう。
あーついにきたな。
わたしは会社に早退の連絡と仕事を引き継ぎ、新幹線のホームで調整をつけた。当時社会人3年目。妹も弟も学生だった。実家は自営で、母だけが経理を担当していた。 家族の生活を回すため、わたしは母を入院させて東京に戻ることを決心した。
久しぶりの実家では真ん中に咲く狂気の睡蓮花が沈まないよう、皆が母を取り囲んでいた。 それをみて、これは長丁場だと思った。花の前に、周りの葉を退けなければならない。
会社との連絡の合間に、家中の刃物をひとまとめにベッドの下へ隠した。電話越しには誰にもその茶番は伝わらなかった。
パソコンを開き方々へ電話をかけるわたしは
母にとって、敵側で諜報活動を行い母を貶める策を行っている悪の根源だったようだ。 何度もその様子を足音を立てずに近付き、汚い目で見ては罵った。
わたしを懐柔しようと様々を駆使する母はお人形のようだった。 いかん離人してる場合じゃない、とせわしなく現実への焦点を取り戻した。
結局、その数日間で入院はできなかった。
給料の全てが交通費と家族への手渡しで消えた。大学生の妹と就活中の弟もいた。しかし母親を入院させることに、家族はYESと言わなかった。
あまつさえ、わたしには心が無い
普通はそんな事出来ないの一点張りで非難された。 この家の人たちは現実が見えていなかったのだ。
父は、会社員のわたしとその雇用主との関係を
自分と娘の関係に錯覚をしていた。
妹や弟は自分の置かれた境遇とこれまでの過去に
落胆と諦めと恨みに身動きが取れず、
親を喪う現実を目の当たりにして狼狽えた。
人は水だけでは生きられない。
しかし家族がいなくても生きていくのだ、いつか。
それが 今であってもおかしなことじゃない。
父親にも家族にも頼ることができなくなったとき
わたしに手を差し伸べてくれた全員が、血の繋がりのない 他人だった。友人や知り合いのツテでソーシャルワーカーと直接連絡を取り、入院までの時間を短縮してくれた。
当時の彼で今の夫は、わたしの東京での生活を支えてくれ、妹の部屋まであてがってくれた。
母の入院当日の夜、泳ぎ切った。と、酒を飲んだ。
さあ明日から東京に戻るというとき。
母が狂い肌身離さず持っていたバッグの中を見る機会があった。なにを大事に何日も何日も、握りしめてしたのだろうか。そこでわたしは思ってもいなかったものに遭遇した。
古びた 母子手帳 が 三冊。
ドバッと、どっと、パチンと爆ぜた。
糸という糸。支えてくれた 人のやさしさ。
口惜しさ 絶望 崩れてしまったお母さん
ぜんぶが火薬となって燃えた
明日わたしの居ない間に 母が死んでも
明日の朝 父が倒れても
いまこの瞬間から この家と縁が切れても
わたしはこれを持ってこれから生きられる。
わたし生きていける。
滂沱とはあの時だ。
母は愛し方を知らなかった。でも愛してたんだ。愛されてた。不器用さを責めることかできない。母の鬱発症はなるべくしてなった。それは時間の問題だった。
子どもであっても 何もできない。
人は自分でしか 自分を変えられない。
わたしと わたしの家族との間 にはおそらく 理解の壁が大きくあった。 わたしは大事な人を 自死で 亡くした。それを1人で抱えた 苦悩の経験もあった。
だからこそ急いで入院させ、専門家の手を入れるしかないと、感情を抜いて行動したのだ。
わたしはあの人の娘であった。
そして 大人になっていてよかったのだ。。。
その後数ヶ月は実家と東京の往復は続き、終止符を打ったのはお腹に宿った子どもだった。
超絶技巧な綱渡りの詳細は、今でもあまり思い出したくない。 だけど あのとき、わたしは母の葬式を取り仕切った気がする。
母から卒業し その遺品をたしかに受け取ったのだ。